2020年1月16日木曜日

中村多仁子(元東京オリンピック体操団体銅メダリスト)・オリンピック半年前(2)

中村多仁子(元東京オリンピック体操団体銅メダリスト)・オリンピック半年前(2)10歳若く生きよう
現在は東海大学名誉教授、新潟県出身の76歳。
大学卒業後東海大学で体操を指導、1978年には東海大学を全日本選手権など優勝させるなど指導の面でも活躍されました。
中村さんは高校2年から始めた体操でオリンピックに出場します、当時19歳。
東京教育大学の学生でした。
大学卒業後23歳で一緒にオリンピックに体操で出場したみつくりたかしさんと結婚、2人のお子さんを出産、そして離婚も経験し舞田。
中村さんは現在は背筋が伸びて姿勢はいいんですが、体操を辞めてから背筋も丸くなってしまい、これではいけないと自分で簡単にできる体操を本にまとめて出版しています。

1943年新潟県生まれ。
兄弟4人の3番目に生まれました。
ちいさいときから動くことは大好きでした。
活発な女の子でした。
中学校の時に9人制のバレーボールの中位のセンターの役をしていました。
団体徒手体操にも先生から声をかけられて終わってからいいから来なさいと言われて二つを掛け持ちでやって県大会で二つとも準優勝しました。
大学は経済的に無理だと思って女子高に行こうと頑なに思っていましたが、担任の先生が家に来て両親を説得に来て両親も納得して高校は進学校の三条高校に行きました。
先生が即願書持って先生が提出してくれました。
その先生がいなかったら体操とも出会わなかったし、オリンピックとも縁がなかったと思います。
三条高校ではスポーツをするクラブ等は一切なくて演劇部に入りました。
演劇部は面白くなくて体操の先生がスポーツをやらした方がいいと親を説得に来ました。
体操部も女子も設立することになりまして、2年生になるときに体操部が発足して体操の練習を始めました。
床運動、跳馬、平均台、段違い平行棒の4種類です。

体操部の先生が段違い平行棒を一生懸命すればオリンピックに出られるかもしれないといわれました。
鬼のような先生でしたが情熱があるとも思いました。
一流選手のフィルムを撮ってきて体育館に写して技を覚えろとか言われて、観る練習がかなりありました。
私にとって非常な財産になりました。
3年の夏の大会があり、4種目を個人で出てファイナルに出られて、段違い平行棒だけは凄くよくできましたが、知らなくて止まる動作が無いため減点しますと言われたが、段違い平行棒だけは3位に入ることができました。
大学は東京教育大学に行きました。
大学1年の時には段違い平行棒だけはよかったが、ほかは駄目でした。
インカレでは5,6位に入りました。
2年生の時には世界選手権の代表に選ばれまして、3位になりました。
東京オリンピックにはローマ大会のメンバーが残っていて銅メダルが期待されました。

プラハの大会があり新人(19歳)で凄く刺激がありました。
平均台では頭が真っ白になり何も覚えていないです。
ヨーロッパでは日本人は繊細な動きがあるという評価がありました。
何も覚えていない中でやりましたが、日本でやった点数よりも高く出ました。
1964年東京オリンピックで団体で3位になりました。
大会前には体操女子は銅メダルでなければならぬ、という様な雰囲気でした。
プレシャーがあり街に出ると期待の声があり街に出るのも嫌でした。
規定問題が初日にあり、2日目は自由問題があります。
初日ドイツが3位でしたので絶対銅は取れないと思ってみんな大泣きでした。
自由問題ではもう銅を考えないで、練習してきた通りやりましょうと全員が思いました。
4種目終わって控室に戻ったら3位になったという事でした。
ドイツは普段では考えれれないようなミスをしてしまっていました。
自分がゼロになったときには、捨て身になったときにはやり切れるものだと思いました。
私は幸運だったと思います。

三条高校を薦めてくれて中学の先生、東京教育大学でのいい先輩たちに出会っていい環境にも出会って、東京オリンピックの強化選手にもなれて、体操浸けみたいな月日を過ごしましたが、支えてくれ周りの人がいなければ現在の私はいなかったと思います。
オリンピックの2年後のドルトモント世界選手権でも団体3位になりました。
段違い平行棒でも3位になりました。
他の国の選手がやってない技を3,4個組み入れてやって9.8という得点が出ました。
メキシコオリンピックでは団体4位でした。
帰ってきて全日本選手権の後に26歳で引退することになりました。
62歳ぐらいからメニエール病にかかって退職するまでの3年間学校で何回も倒れました。
運転中に発作が起きて死ぬかという思いを何回もやりました。
全日本学生選手権でチームとして東海大学を優勝させるのが夢でしたが、それにかけて一日5,6時間休みの日は10時間ぐらい体育館にいて、ストレス、家庭の仕事もあり、教員、コーチなどがありそれがたまったと思います。
退職して10日間で発作が出なくなりました。

67歳で股関節の痛みが出てきました。
右の股関節が外れてしまい手術をしました。
退院まで一か月半かかり、歩けるようになるまで大変な経験をしました。
身体者障害4級になってしまいました。
学生たちとの合言葉は綺麗なな体操をしようねという事でした。
自分自身の体と鏡を見たら汚かったので、学生たちは納得しないと思っていたので、正しい姿勢を意識した中で「シルキー体操」を考えました。
一日一分でいいという事で、意識して立ってみる、意識して座ってみる、これが一日一分のカギでそれが続けていったら身体は若く動けるという事をコンセプトにしています。