三好鋭郎(手袋製造会社相談役) ・不自由な足が私の世界を広げてくれた
三好さん80歳は生まれて間もなく小児まひにかかり足が不自由になりました。
高校卒業後家業の手袋製造会社に就職、青春時代自分の障害を悲観して将来に絶望した時期もありましたが、一冊の本と家族に支えられて乗り越えます。
心の整理がついてからは家業の手袋製造販売のために不自由な足で世界各地を飛び回り、おととしには大手メーカーの手袋の下請け製造などで売上げ日本一を記録しました。
現在は体に障害がある人や高齢者が使い易いキャリーバックや車椅子の開発に取り組む
三好さんに伺いました。
スキーの手袋では全米で7年間連続第一位になっています。
日本国内でも日本一になりました。
香川県は塩田の地で人が沢山余っていたことと人件費が安かったことで大阪からこちらに移ってきました。
兄弟6人兄弟の真ん中です。
父が手袋製造をしていました。
兄弟の真ん中が跡を継ぐようになったのは、生まれて6か月目に小児まひにかかり、右足を悪くして、親は私が後継ぎにしないと就職が難しいと考えました。
幸い私は手が器用でした。
県内から大阪など医者通いしました。
自分が学校に行けるぐらいは歩けることができました。
周りからいじめにも会いましたが、精神的にも強くなったと思います。
小学校6年の時に先生が優しい先生で指導してくれて周りからすくわれました。
小学校の時から私が仕事を手伝わされていました。
そのころから父は考えていたようです。
高校卒業をして家業を手伝う事になりました。
最初は皮の手袋の裁断から入りました。
コストを下げるための裁断方法をいろいろ考えました。
3~5%コストダウンをすることができました。
23歳の時にハンディーがあって振られたと思って、生きる望みをなくして家をスクーターで飛び出しました。
淡路島に船で渡って明石に渡って兄が東京にいるのでいつの間にか東京にいっていました。
兄と出会って1時間ぐらい泣きわめいて、それでスーッとしました。
4人振られていました。
一冊の本に出合いました。
「積極は天国、消極は地獄」という座右の銘ができた一節でした。
100回以上読んでいます。
自分しかできない仕事があるという文章に出会いました。
自分もなにかあると感じました。
父の会社を立派な会社にするという事で気持ちが切り替わりました。
海外に打って出ようと考えました。
英語ができないし足が悪いのでハンディーがありましたが、ニューヨークにまず行きました。
言葉に困って通訳をまず探して、ニューヨークの商工会議所に行きました。
3社ぐらいリストアップしてくれて、資料をもらって電話を掛けましたが、なかなか会ってくれませんでした。
その後7,8社があってくれましたが、1社だけが将来のお客さんにつながる訳ですが。
お金も当時140万円かかりました。(今のお金で1000万円を越えています。)
英会話ができなくては駄目だと思い、帰ってきてまずNHKの英語会話の勉強を始めました。
それがもの凄く役に立ちました。
車ではケネディーさんの講演録エンドレステープにして聞いて一緒についてしゃべって何千回とやりました。
3,4年かかって何とか自分の英語で仕事ができるようになりました。
毎年アメリカに行き、3~6年掛かって販路拡大に至りました。
日本の材料が良かったです。
裁断と縫製もよかったし値段も競争力がありました。
円高不況になり、1970年過ぎてから台湾か韓国に出ようと考えました。
韓国の方が寒い地域なので手袋製造には向いていると思い、1972年に韓国で生産を開催することにしました。
たまたまニクソンショックで360円から240円ぐらいになってしまいました。
競争力に勝つためには海外しかないという事を思った時だったので、ぎりぎり間に合いました。
苦戦をしましたが、韓国人はよく働きました。
「自分のために、社会のために、世界のために」という経営理念を作りまして、韓国人の意欲を掻き立てていい人が集まってきて成功するようになりました。
手袋産業は春になると暇になってしまっていました。
ニューヨークに3回目にいった時に(1966年)、トランクに75mmの車輪がついているのを見かけてこれは面白いと思いました。
購入してみたら、全然楽でした。
これを小さくしていったらと思っていて、バブル崩壊があり手袋だけでは売り上げ維持が出来ないと思って、車輪付きの生産をやったらどうかと弟から言われて作ったが上手くいきませんでした。
アイディアが浮かんで、ハンドルを湾曲させることを考えました。
持ち運びが楽で障害者が寄りかかれるようなキャリアーバックを作り上げました。
自分で世界中使って歩いて、使っている姿の写真を載せてそこから売れるようになりました。
2000年10月には初めて目標を越え、デパートのカバン売り場と介護売り場に並びました。
次に小さくて軽くて使い易い車椅子を作りました。
2013年にポストポリオという病気にかかり、痺れたり呼吸困難になる場合もあります。
車椅子を使うようになると思っていましたが、先生からは歩けるうちはできるだけ歩くようにという事を言われました。
もし当時車椅子を使っていたら、今は歩けなくなっていたと思います。
使ってみたこともありましたが、車椅子が大きくてトイレに入れなかったり机にぶつかったり、又洗面台に近づけない、この二つが問題でした。
この問題に挑戦して図面をひいて、夢にひらめいたりしてそれを又図面にしたりしていきました。
段々小さくたためる方法を考えていきました。
車椅子にポケットを作ってほしいとの要求もあり、順調に行きました。
障害者が喜んで貰える分野に世界中に大勢いそういう人がいらしゃいます。
自分が欲しいもの、ニーズに応えたものが売れると思います。
自分の人生を振り返って書き残そうと思って今毎日書いています。