2020年1月17日金曜日

〔震災報道の経験を語り継ぐ〕特集 知らない世代に伝えたいこと

〔震災報道の経験を語り継ぐ〕特集 知らない世代に伝えたいこと

阪神淡路大震災発生後25年となる。1995年1月17日5時46分
テーマ ラジオについて

AMラジオ災害問題協議会が開催され防災シンポジュ-ムについて。
前半 震災直後の経験などについて
ABCラジオ 道上氏
縦揺れが2,3秒あった後に横揺れが始まりました。
学校で毛布が足りない、ここの病院で透析ができるというと、そこにばっかり義援品が届いたり行列が出来たりしていました。
インタビューした時に80歳の女性が「私の命の恩人はラジオだからよろしく言っておいてや」と言われました。
半壊の状態でがれきの中でラジオを聴きながらいて、救急隊に救助されたそうです。
「遠い親戚よりも近くのラジオ」と言っていました。
被災地に行ってボランティアの人の手伝いをしました。
魚屋さんが妻も子供もなくしたが、自分のところにある商品を並べて魚屋さんもも音凄いテンションで前向きに行きようとしていましたが、半年後に行ったときには魚屋さんは自殺していました。
八百屋さんはどこかに行ってしまいました、そんなことばっかりでした。
東灘の元気村の山田和尚が毎週末炊き出しをしていて、そのお手伝いをしに行きました。
取材した人にラジオを渡していきました。

ラジオ関西 谷氏
須磨に社屋があり番組の準備中に揺れました、四つん這いになってもこけるぐらい揺れました。
コンクリートの壁が全部落ちて土埃とガスの臭いがしていました。
外に出ていたら放送ができるという事で社屋に戻りました。
6時5,6分でした。
6時の時報と同時にラジオ関西が放送を始めていました。
*その時の放送を流す。
 火の元を注意するように伝える。
これをきっかけに69時間ノンストップで放送することになる。
ラジオ関西が中継地点になって安否確認などを流すようになる。
リスナーの方からラジオ関西に情報を寄せてくれて、アナウンサーとは関係ない社員の方もメディアとしての意識が高かったです。

NHK 住田氏
東京のNHKの「おはよう日本」のアナウンサーをしていました。
神戸に帰省していて団地の3階の実家に帰っていて地震に遭いました。
簡易ベッドに寝ていたらドーンという突き上げるゆれがあり何度もベットの上で飛び跳ね、立ち上がれないし、這い出せないような状況でした。
停電でしたが両親も無事だということが判りました。
現場に行かなければという事を思いました。
自分の家の電話は通じず向かいの家の電話が通じて東京に連絡できました。
見た儘を伝えようと徹しましたが、灘区でも一番被害の少なかったところだったと後で判りました。
東灘区の高速道路の倒壊現場などにいきましたが、離れたところとの温度差,感じの違いが凄くいら立ちにもなりました。
交通情報を主体にして欲しいとの要望がありました。
とりあえずそのまま手短かに話して、救援の車を通してほしいと伝えました。
限られた情報の中から全体像はなかなかつかみにくい状況にはありました。
情報の入ってくる断片から何を読み取ってこの後に備えることが難しいという事を感じたのが1月17日でした。

司会者:NHK全国ネットワークの中で被災地ので起きていることを、被災地の外の人にどう伝えるか、どうつなぐかという役割を担っていたこと。
現場での奮闘。
住田:東京からのリクエストにはこたえながらも こっちの言いたいことはこれなんだと
こちらの状況を伝えることが現場の役割かなと思います。

阪神淡路大震災の後に入局した人たち
KBS京都 森谷氏
放送が全くできなくなってしまった場合に、関西のラジオ局の間で双方で困ったことがあれば放送でもお互い助け合おうという協定を双方で助け合う環境、この数年そういった環境が有効になってきていると思います。

ラジオ大阪 藤井氏
大震災の時には7歳でした。
2011年に福島TVのアナウンサーとして東日本大震災を経験しました。
揺れが収まった福島市の被害状況を取材に行きました。
福島第一原発2号機の放射能漏れの恐れありという第一報でした。
本社からの指示でVTRをもって戻って来いと言われました。
県庁の階段の踊り場でマイクを繋いでしゃべっている人がいました。
ラジオ福島のアナウンサーさんでした。
会見で見たまま聞いたままを彼はリスナーに届けていました。
その時に負けたと思いました。
TVとラジオではメディアの特性が違っていると思います。
被災地の必要な情報は被災地の津波の情報などではなくて明日も生きるための生活情報に尽きるのではないかと思います。
数年前生活情報を取材するための電話帳を作成しました。
警察、消防、行政、インフラ、主要スーパーなどの窓口の番号を網羅したものです。
明日も生きるための情報をきちっとリスナーの皆さんにお届け出来るラジオ大阪でありたいと思っています。

和歌山放送 覚道氏
混乱期には間違った情報も一人歩きしてしまう事も課題にあげられます。
復興の段階でどの段階でどういう風に伝えるのか、取捨選択、どういうふうに汲み取っているのかお聞きしたいです。
森谷:透析をするところについてろ情報が欲しいという事でダイレクトに入ってきて、そもまま訴えたら答えが返ってくるという事もありました。
ラジオは停電でも電池式で聞いていられた。
スマホでは電源が無くなると同じようなことが期待で来るのかといったことを逆に聞きたいです。
道上:災害は規模も違えば日々の生活の様子も各家庭で全部違います。
できることをできる時にできるだけ、これしかできないです。
スマホ、SNSで伝わるものはラジオより早いと思いますので、それはそれでやっていただいて結構だと思います。
そういった方法と連携してやって行くような時代で、ラジオで何ができる、TVでなにができるという時代ではないんじゃないかと思います。
住田:大切なのはキャッチボールで、呼びかけの方法もいろいろありますが、キャッチボールの中から答えが返ってくる場合がり、その仲立ちの一つがラジオかもしれません。
孤立に対してラジオは役に立つのではないかと思います。
ケーブルなどが切れた場合、ラジオの電波は最期の手段になるかもしれない。
覚道:今お話を聞いてやっぱりラジオは生の声で聴いて、SNSもありますがラジオの可能性があるという事を感じてもっと頑張らなくてはという気持ちになりました。