赤松利市(作家) ・ホームレスから作家へ
赤松さんは香川県出身、63歳。
大学卒業後、大手消費者金融会社に入社、激務をこなした結果燃え尽き症候群となり退社、ゴルフ場の芝生管理の仕事に就き35歳で起業。
業績は好調でしたが、心の病を患った娘と暮らす中で会社が回らなくなり、仕事も家庭も破綻しました。
2011年の東日本大震災後は東北に住み、土木作業員や除染作業員を経験、そこでも仕事に行きづまり所持金5000円をもって上京、ネットカフェ住まいや路上生活を送りながら書いた小説『藻屑蟹』で2018年に第1回大藪春彦新人賞を受賞して、作家デビューをしました。
以来僅か1年半で7冊の単行本を出しています。
赤松さんのその壮絶な半生と小説執筆にかける思いを伺います。
起きるのが深夜午前零時で午前1時から書き始めて、15時間超えないように書いていますが結構超えてしまいます。
その間は食事、休憩はないです。
午後4,5時に終わって食事して本を読んで、午後6,7時ぐらいに寝ます。
執筆はネットカフェで寝るのは知り合いの家で居候のように寝かせてもらっています。
新人賞を頂いた時はネット難民というか、ネットカフェに泊まるお金がない時には、路上とか公園で寝ていました。
応募したのが61歳で住まいは「住所不定」と書きました。
ネットカフェでないと書けないような気がして今は月ぎめで借りています。
『藻屑蟹』
福島を舞台に不当に扱われる除染作業員など復興関連のお金に翻弄される人間を描いたもの。
藻屑蟹というのは中華料理に出てくる上海蟹です。(清流に住む蟹)
福島で除染作業員をやっていた時に、清流が流れていてそこにカニ、ヤマメなどもいましたが、汚染されているのでみんな見向きもしませんでした。
春にはつくしも蕗も出てきますが、それも誰も取りません。
目に見えない放射線により阻害されているもの、その象徴的な存在として蟹を取り上げました。
80枚の短編で1週間で書き上げました。
『鯖』 初めての長編小説。
鯖の一本釣りの漁師が主人公で、経済的に恵まれていない漁師たちの日常を丁寧に描いている。
突然IT会社社長とビジネスパートナーの中華系美女が登場して急に話が展開する。
山本周五郎賞の候補になる。
原稿用紙650枚になりましたが、長すぎていくつか削って出版に至りました。
長編を書く自信が付きました。
4作目が『ボダ子』
自身の波乱の半生を捨て身で描いたもの。
ボダ子は娘の事です、今は境界性パーソナリティー障害です。
娘が入院していた当時は境界性人格障害でした。
境界をボーダーと呼ばれていて、ボーダーからついたあだ名がボダ子でした。
7冊を発表しているが、長編一本書き上げるのが1か月かかかるか、かからないぐらいです。
35歳で起業して20年ぐらいは裕福な生活をしていましたが、会社が破綻して文無しになって再起を図って復興バブルといわれていた宮城県へいって3年半いましたが、
もっと稼ぎたいと思って福島に移って除染作業員をして底辺を見てしまいました。
社会的弱者、貧困とかその世界に入ると若者の非正規雇用とか、目に留まるようになって今それを書きたいと思っています。
香川県で生まれて、父は植物病理学者で私が9歳の時にアメリカに呼ばれてワシントン州立大学に行って家族も行きました。
「レ・ミゼラブル」を一冊持って行って何回も読んで読書の習慣がつきました。
日本に帰ってきて中学1年生の時に太宰治と出会いまして、文庫本で出ているものはほぼ読みました。
その後三島由紀夫も全部読んで、川端康成、高校1年で谷崎潤一郎の文庫本は全部読みました。
高校2年の時に西村寿行を全部読みました。
エンタメにうつってこういう世界があるんだなと思いました。
当時小説新潮、小説現代、オール読物、問題小説、小説宝石を定期購入して読んでいました。
大学は文学部に行き、読書三昧でした。
大学4年の時には1年間で1000冊を超えました。
卒論は友達の分を含めて5人分書きました。
アルバイトで友達のものを先に書きそれは優、良とかもらいましたが、自分のものを書かく時にはネタがなくなっていて可(一番低い)でした。
百貨店にほぼ内定していたが、父とその人の消費者金融(サラキン)との関係からと周りからの勧めもあり消費者金融会社に身を置くことにしました。
すでに結婚していて奈良支店に勤務しました。
厳しいといわれる岡山支店に配属希望しました。
きつい取り立てはできませんでした。
相手の話を聞いて自分のやり方でやって翌年全国トップになって社長賞をもらいました。
岡山時代は朝早くから夜遅くまで仕事をしていて、妻は不慣れな土地で友達もいず、実家に帰ってしまい離婚することになりました。
妻の父親は土地持ちだったので仕事などはせずに暮らしていました。
奈良支店長をしてその後東京本社の営業企画本部に入りました。
上場準備委員会に入ることになり、2%の取り立て未済が許されることから金を捨てる仕組みを考えろと言われて、5人のチームでやるように言われて、朝9時から翌朝の4,5時までずーっと仕事でした。
東京駅近くに東京温泉というサウナがありそこで仮眠して、会社から電話で起こされて朝9時には出社するという繰り返しで、半年続きました。
最初一人倒れすい臓を悪くして、みんな入院するような倒れ方をしました。
4人目は精神を病み、マニュアルが完成した時には私だけが残りました。
私も燃え尽きていて、家に帰ったら二人目の妻から離婚届けが置いてありました。
1週間の休暇で故郷に帰って自然の風景に接し、自分は何やっているんだと涙が出てきました。
その後会社に戻って辞表を提出しました。
ゴルフ場のグリーンキーパーの仕事を覚えていきましたが、柴管理の理論値と働いてる時間が乖離していました。
ゴルフ場の作業効率を上げるビジネスモデルを作って、特許を取って東京に舞い戻り売り込みを開始しました。
35歳から55歳まで全国のゴルフ場に展開しようと起業し順調に行きました。
社員は125人いました。
その頃3回目の結婚をして娘が心を病んで、仕事をほっぽらかして神戸で二人で2年間暮らしていました。
事業所巡回できなくなり、結果的に社員が元のゴルフ場に戻ってしまいました。
再起を図るつもりで宮城県に行きました。
肩書は営業部長でしたが、ほとんどは土木作業員で舗装工事などしていました。
血圧が高いのに熱中症予防という事で塩を取り、一遍めまいを起こして倒れました。
真冬にダンプのタイヤ洗いをして4時には日が暮れてきて、敷いた鉄板に水がまき散らされそれが凍って滑って転んだりして大変な作業でした。
その後福島に除染作業をやる職長として10人ぐらいの人を使って、水田の除染をしました。
水田の表土を5cmぐらい取って黒い袋に詰めて仮置き場に置いてゆくという作業でした。(全部で3000人ぐらいいました。)
直に作業ははしませんでしたが、難しい人たちを使わなくてはいけなかったので精神的にはきつかったです。
除染作業をやる人たちは刑務所帰りだったり、覚せい剤のフラッシュバックがあったり、全身に入れ墨が入っていたり、そういった人が多かったです。
除染作業の仕事は1年半やりました。
東京に戻ってきてその時の手持ちのお金は5000円でした。
ネットカフェでアルバイトを探しました。
60歳では仕事を探すことは厳しくてなんとか風俗店の呼び込みの仕事を得ました。
転々としながら1年間暮らしました。
墨田公園の草むらにダンボールを敷いて寝たりもしました。
このまま自分の人生を終わるのかなと思いました。
第1回大藪春彦新人賞募集というのが1週間後に迫っていて、1週間で書き上げて出しました。
いろいろ経験して貧困とかマイノリティーにも目が向けられるようになりました。
今年は8冊ぐらい出したいと思っています。
貧困、格差社会などをテーマに本を出したいです。