有森裕子(バルセロナ五輪銀メダリスト) ・【わが心の人】人見絹枝
人見絹江さんは明治40年岡山県御津郡(現:岡山市南区)に生まれる。
運動能力が高く走り幅跳び、三段跳び、槍投げなどに非凡な才能を見せました。
女子の陸上競技が初めてオリンピックの正式種目となった1928年のアムステダム大会では銀メダルを獲得しています。
昭和6年亡くなりました。(24歳)
有森さんはオリンピックでは1992年バルセロナの女子マラソンで銀メダル、96年アトランタでは銅メダルを獲得しました。
有森さんは人見さんと同じ岡山県の出身で女子のスポーツの普及に貢献した人見さんの思いを受け継ぎたいとおっしゃっています。
今は年に一回だけ岡山のマラソンには出ていますが、普段トレーニングなどしていません。
私は試合では4か月前から組み立てていましたが、最低でも3か月は必要です。
当時女性がスポーツの場に足を出して出るというのがはばかられた時代にスポーツを盛んにされていったのは人見さんからだと思います。
祖母と同じ学校で先輩にあたって祖母から聞いています。
女子のロードレースが初めて岡山で出来て、トロフィーを人見記念杯と名付けられました。
人見さんは最初はテニスをやっていましたが、何をやっても強い選手で、陸上の先生に見出されて始めて高跳び、走り幅跳び、短距離など記録をどんどんだしていって、女性選手とは思えないぐらいの強さと記録を更新していったといいます。
おしゃれでモダンだった人でもありました。
字体もかわいい感じでした。
1984年に女子マラソンが入ったぐらいで、人見さんの時代は女性がスポーツをすることに対して社会的に受け入れられないような雰囲気がありました。
三段跳び、やり投げから、やれば世界記録になってゆくような選手でした。
1928年アムステルダム大会で銀メダルを獲得。
彼女は短距離、跳躍が専門でしたが、800mは全く彼女の専門外で取った銀メダルでした。
銀メダルを取ったことによってその後の彼女の活動に繋がって行きました。
日本ではたった一人参加した女性選手でした。
女子の個人種目全て(100m、800m、円盤投、走高跳)にエントリー、他の種目は結果が出せなくて、残りが専門外の800mしかなくて、それに挑戦し銀メダルを獲得することになりました。
日本人女性初のオリンピックメダリスト(銀メダル)となった。
その後オリンピックで陸上でメダルを取ったのが64年ぶりに私が取るという事になりました。
不思議なつながりになりました。
人見記念杯をもらったのは実業団に入って一年目の冬です。
私が陸上を始めて8回目の時でした。
それがオリンピックに繋がっていきました。
亡くなった友達の写真と祖母の写真をもってバルセロナに行きました。
バルセロナで銀メダルを取ることができましたが、この日が人見さんが銀メダルを取った日でもあり命日でもあったわけです。
人見さんが付けたゼッケン番号を足すと13で、私の付けたゼッケン番号を足すと13で、ここも一緒かと思いました。
そこから人見さんのお墓参りも行くようになりました。
彼女の生き方、性格的なところ、彼女のしてきた活動とか精神的なところで、伝え残したかったものが受け継いでいるのかなあという事はアトランタ以降で見出しました。
人見さんは競技生活を続けながら新聞社に入ってスポーツ観戦記事を書いたり、女性スポーツの普及に講演もしていました。
自分の信念を信じて必死になってされて、心身ともに体に影響していったと思います。
海外に行って親友が出来て自分の気持ちを素直に表現できて、エネルギーを入れれる時間がそこにあって、そういうものを持って日本で求めるものにつなげていったんだろうと思います。
女性のスポーツへの参加の運動のために資金集め、講演会を行いました。
1930年にプラハで国際女子競技大会があり、人見さんが若い女性たちをつれて行って、自身でも競技に参加しました。
夢が叶って選手たちを継続して育てていけるという事を物凄くしたかったと思います。
24歳で亡くなられたという事は本当に無念だったと思います。
人見さんが作った道をしっかりと受け継いでいった女性アスリートのスポーツの道はできたと思っています。
その道に乗れたのは感謝と共に光栄に思っています。
24歳はあまりにも若すぎたと思います。
バルセロナで銀メダルを取りましたが、その人の生き方、その人の生かし方を考えられているわけではなかった。
スポーツを通して社会にどう生きていくかなどほとんど考えられていなかったところはあります。
そんな中で落ち込んだ時がありました。
スポーツをすること、頑張ることが社会に価値と意義を見出されているかと言えば全然まだないという事に私たちはぶつかりました。
疑問と前に進まない時間を過ごしていました。
バルセロナ以降身体がボロボロでそんな中で練習をしていて、両足が痛くなり痛みを取るために手術をして痛みは取れました。
頑張るしかないと思って、リハビリをやって兎に角メダリストになりたいという思いがわきました、それがアトランタでした。
もう二度とこういう事を考えないといけない選手は出てほしくないと切に思いました。
アトランタでは銅メダルを取ることができました。
誰の評価もいらなかった、自分が自分に対して最高に課したことに対して実現できたという事であのコメントになりました。
人見さんの自分の信念をもって突き進む難しさを乗り越えようとする思いは私の力になったことは事実です。
スポーツそのものが単に競技会、お祭りで終わるのではなくて一つでも二つでも今ある社会に何か生きてゆくのに通ずる様な部分に、私は応援と思いをはせて形づけていきたいと思います。