金戸 俊介・久美子(元東京オリンピック飛び込み日本代表)・オリンピック半年前(1) 三代続く飛び込み競技
金戸 俊介さんは石川県出身(79歳)久美子さんは東京出身(83歳)
1960年のローマ、1964年の東京と2大会連続でオリンピック飛込競技日本代表として活躍されました。
パートナーがいたから頑張れたと語るお二人は東京オリンピ後に結婚して、その後高校や大学日本水泳連盟の強化コーチとして飛込競技の指導に当たってこられました。
息子の金戸 恵太さんと幸さんご夫妻も飛込競技のオリンピック飛び込み競技の代表としてソウル、バロセロナ、アトランタの大会に出場しています。
さらに孫たちがオリンピックを目指すという三代続く飛び込み競技のスペシャリストです。
競技には高飛び込みと板飛び込みという種目がありますが、いずれも2秒足らずのうちに空中で美を表現して水に飛び込みます。
この一瞬の美を作り上げるために一日8時間100本以上の飛び込みをすることもあるそうです。
俊介さん久美子さんが飛び込みを始めたのがいずれも高校時代。
二人にはそれぞれユニークなきっかけがあったそうです。
俊介:一回目のローマでは成績が良くなかったもので二回目は頑張ろうと頑張っていたら二回目も出れました。
試合中に怪我をしてしまって、その後子どもの指導に当たって、高校、大学、社会人の選手をずーっと教えてきました。
久美子:当時は今みたいにいろんな機器が発達していなかったので、コーチのいう事を信じて想像力を働かせて練習をやっていました。
俊介:怖がりだったので飛び込むときには苦労しました。
種目がいろいろあり10、11種目を飛びますが、新しい種目を飛ぶときには怖かったです。
一回やるとこんなものかとなるんですが。
1m、3mとかバネのついた板を利用して高く飛び上がって飛び込むのと、5m、7、5m、10mと固定台がありますが、高飛び込みの2種類がります。
その後シンクロ飛び込みも入ってきました。
最初10mを飛ぶときに1時間ぐらい粘ってようやく飛んだことがあります。
久美子:目は開けてないと怖いです、水の中にはいると目は閉じますが。
私はエイやっちゃえという感じでやっていました。
しかし1シーズンに一回はお腹を打ったり、背中を打ったりして気絶していました。
俊介:中学時代鉄棒とか跳び箱など好きだったので高校に入ったら体操部に入ろうとして、鉄棒などをしてるクラブがあり、先生に体操部にはいりたいといったら一緒に練習するように言われて、2,3日経ってから友達から飛び込み部に入ったのかと言われてましたが、面白かったのでそのまま続けました。
6月ごろにプールに入ることになりました。
その先生に出会わなかったら飛び込み部には入らなかったですね。
久美子:終戦後アメリカから映画が入ってきて、シンクロナイズスイミングとダイビングをやるスターでエスター・ウィリアムズという役者ですが、白い水着を着てやっていたのでやってみたいと思いました。(中学時代)
高校の時にお茶の水のYWCAの飛び込みの教室をやっていたのでそこに入りました。
1936年のベルリンオリンピックの代表だった大沢礼子さんに教えていただきました。
YWCAは水深が3mで浅かったです。
種目を考えずに落ちていました。
俊介:最初は怖いんですが何回もやっているうちに慣れてきて、うまくいった感じが得られるから続けられました。
久美子:当時はみずしぶきは関係なかったが今は駄目です。
俊介:永田修三先生に巡り会えてよかったです。
久美子:100本飛んだことが2,3回あります、朝7時から12時ぐらいと、1時から7時ぐらいかかりました。
アメリカに行ったときに気が付かないで飛んで、下に友達がいて頭がぶつかってしまって、彼女は5針、私は26針縫いました。
丁度マリリンモンローが亡くなった日で、看護師さんたちがそっちにか駆けつけて、30分ぐらい ほったらかしにされました。
俊介:プロペラ機でローマに着くまで40時間かかりました。(1960年)
久美子:東京オリンピックの前の大会という事で、全種目に出るという事で300人ぐらいいたと思います。
俊介:ユニバーシアードの大会がローマの次の年にブルガリアであり、そこで優勝することができました。
その2年後のブラジルに行かせもらって優勝出来て、東京にも出ましたが、上腕の肉離れを起こしてしまい十分な練習ができなくて、最悪の状態で東京オリンピックの試合に出て、飛び板に頭をぶつけて、水に落ちて水の中で気が付きました。
久美子:東京オリンピックの後に日大の桜ケ丘高校に指導と言う事で行きましたが、生徒を集めるのが大変でした。
俊介:夏休みになると息子をどっちかのプールに連れていくしかなくて、或るときに息子が大阪の大会に出て一番下の方の成績で悔しがって、練習して翌年にジュニアの部で優勝して、本格的に練習するようになってオリンピックまで繋がって行きました。
勝つには努力しかないです、自分でやる気になってやらないといけないです。
まず陸の上で回る練習、トランポリンでベルトを着けて補助して回転を覚えて、次には水の上でやるわけです。
ローマで私が飛んだ種目は前宙返り3回転エビ型は世界で初めてでしたが、今は孫が簡単に飛んでいます。
今は選手に束になってサポートしないと難しい種目をこなして練習を続けることは難しいです。
空中の感覚は飛んだ本人でないとわからないです。
飛んでいるときの補助は声ぐらいしかないです。
続けてこられたのは人ができないことをできたという満足感ですかね。
水しぶきを出さないためには水に入った瞬間に手で受けて手で水をかいて泡を消していきます。
落ちる時の水は硬い、27,8度ぐらいになると水は柔らかくなりますが、16度ぐらいでは本当に硬いし、痛みも2倍ぐらいになります。
久美子:あざだらけになっていましたが、やり遂げたかったです。
自分では満足して辞めました。
ローマで燃え尽きてしまって東京では28歳でしたから。
俊介:中国は人口も多いし、全国から集めて子どもの時から厳しい練習をして、エリート中のエリートが最後に出てくるわけです。
世界の選手のビデオを集めて研究して、トランポリンを中国のコーチがうまく使えるようにして練習をやらしていました。
久美子:主人がいたから東京オリンピックまで続けてこられました。
小さい子から興味を持ってくれたらうれしいと思います。