北河原公敬(東大寺別当69歳) ・蓮華のごとく生きる
平成22年に東大寺第220聖住職に就任しました 祖父、父親も住職を務めました
東大寺が建立されたのが今から1260年前の天平時代 聖武天皇の願いに よるものです
奈良の大仏として知られる蘆舎那仏は巨大な蓮の花びらの上に鎮座してます
蓮の花は仏教では蓮華と呼ばれ、浄土 理想の仏の国や清浄、解脱等を象徴します
祖父が若いころから晩年まで蓮をこよなく愛して、沢山の金魚蜂に何種類も植えてきた
植え替えの時期に行き合わせた時に お前は花に興味はないのかとか、蓮をやってみないかと言われたが若かったので興味が無かった
晩年体調を崩して入院してほったらかしの状態だった
知り合いから蓮の根をいただき、はちに植えてそれっぱなしの状態だった
2年したら一つつぼみが出てきて花が咲くのかなあと思っていた
祖父の容体が悪くなり病院にいったが間に合わなくて 戻ってきたらつぼみだったものがたまたま咲いていた 亡くなった日に咲いた
蓮をやってみようと始めた
毎年毎年植え替えをして、きちっと蓮に対しての想い 世話をするので花が咲いてくれる
気品のある高貴な花を咲かせる 自分の世の中で生きて行くうえでの蓮が私に教えてくれるのかなと思った
世の中の汚泥 欲望だとかむさぼりだとか いろいろなしがらみだとか 世の中の汚れ
けがれの中で生活しなくてはいけないので そういうような状態に身を任せて仕舞って、いきてゆくのも一つの生き方かもしれないけれども、そうじゃなくて矢張りきちっとした生活をするのも大切なことじゃないかと思う
そういう事を蓮は示してくれるのではないかと思う
聖武天皇は何故東大寺をつくったのか 飢饉 疫病が有ったり 藤原博嗣の乱が有ったりして ある意味不安定な世相であった
為政者の聖武天皇は国民が出来れば幸せな、安泰な生活を送れるような社会を実現したいという思いが強かったんだと思う
そういうようなことの表れとして大仏の造立を考えた
大安寺の「審祥(しんじょう)というお坊さんが、日本で初めて華厳経と言うお経を口舌された
自らお聞きになって お経の中から出てくる蓮華蔵世界がとかれていて それが非常に素晴らしい世界 人々の生きとし生けるもののすべてが幸せな生活 が送れるような世界であるならば、
なんとか実際の世の中に実現したいと その為にはこの華厳経の教師と言われる蘆舎那仏 (光明遍照)を作って蓮華蔵の世界をこの世の中に実現しようと思った
慈悲の光 そういうようなものが宇宙の果てまで行きわたる
普通光は障害があればそこは陰に成っちゃうが、そういうものも全部通してしまうというそういう光と言われる 無辺際 宇宙の隅ずみまで光が行きわたる
そういう事をかんがえればもっともっと大きくてもいい
お水取り 修二会(しゅにえ) 二月堂の御本尊が十一面観音像 十一面観音像の前で行を務める僧侶の事を錬行衆と言われる 今は11人でつとめている
錬行衆は日ごろ意識するしないに係わらず犯してしまう罪 トガ 穢れ だとか 多くの人達のそういう穢れ 罪だとかを代表して 11人が代表して懺悔をすると 共に人々の幸せ、国家の安泰、五穀豊穣を祈る
十一面観音像の前で私達が犯す罪、穢れ 貪・瞋・癡(とん・じん・ち)と言うが 私達はむさぼりという欲望があるが あるいは怒ったりして人に対して怒鳴りつけたりする
あるいは無知からくる欲望 そういうものを含めて懺悔をする
懺悔するとともに 人々の幸せ、国家の安泰、五穀豊穣を祈る
時の政府 大臣の名前を読み上げたり 県知事の名前を呼びあげたりする(国家の安泰)
行が終わったら宮中、国にお札を届ける
今年で1261回目を数える 一度も途絶える事が無くきた
東大寺が火災に遭ったりしても途絶える事が無かった
3月11日は修二会 の行のさなかであった 地震であると気が付いた
TV等で大変なことであると判った
大震災に対しての呼びかけを行った 震災で亡くなられた方々に対してご冥福を祈る
被災された方々、被災地に心を寄せて欲しい
それぞれ各々の方がそれぞれの立場で被災地に力を尽くしてほしいとお願いした
通常呼びかけはしていなかったがお願いした(支援金、救援物資、等)
神仏霊場会(150)が近畿にある 東大寺でおこなわれたが 亡くなられた方のご冥福、と早くの復興を願った
ボランティア 慈悲の心 菩薩の心 対価を求めない 無償の施し
宗教的情操教育は有った方がいいのではないかと思う
宗教心が養われていれば、相手に対しての慮る気持ち 心配り 相手の立場に立って物事を 考えたりする そういう意味で宗教的情操教育はあると良いなと思っている
東大寺は華厳宗 華厳経は世の中のあらゆる存在は我々の心の現れである
といわれる 我々の心の計らいでできている
お写教 「唯心偈」(ゆいしんげ)100文字 百字心行とも言われる
唯心偈の最初に 「心はたくみなる画師の如し」と言う言葉が出てくる 「譬如工畫師」と書く 心は上手な画師のようである
心の中では何でも上手に書ける だからと言って描き方を一つ間違ってしまうと我々の心は仏にもなるだろうけれども、悪魔にもなりうる
最後の言葉に 「心造諸如来」と言う言葉がある 心はもろもろの如来を造る 心の描き方、持ち方、で持って我々の心は仏様にもなるし 鬼にもなる
と言いましたが、その仏様がそれぞれの私達の心の中におられる
あるいは私達の心の中で持って仏様が作られてくる
私達の心の中はあっちに行ったり、こっちに行ったり移ろうものですけれども、しかし 心の持ちようによって仏になりうる
我々には仏になるための種子(しゅうじ)がある と言われている 我々は意識していない
知らないだけ 人間だれしも種子がある
その種子を丹精かけて育てたならば、お釈迦様のように仏様のようになれるわけです
ところが我我は悲しいかな、なかなかできない
我々が持っている種子もむさぼりだとか、怒りだとか、そういうような欲望 煩悩を無くす 煩悩から離れる為の丹精さを持っていかなとその種子は育たない
丹精さが必要 そうすればお釈迦さまになれる可能性がある
「初発心時便成正覚」 初めて心を起こす たちまちに悟り 正覚を得たと同じような事 我々が悟りを得ようと思って発心したら 悟りを得たと同じくらいの想いが有るんだという事を教えている
我々が生きてゆく中で、欲望やむさぼりや、煩悩と如何に旨く付き合っていけるか
例えわずかであろうともお釈迦さまに近づけるような努力をするのが有ってしかるべきではないでしょうか
我々は混とんとした世の中で生きて行かなければならないので、どうしたって避けて通れない
混沌とした中でありながらも、自分というもの自己と言うものの確立というか 自己と言うものを
良く見つめてそして、先ほどの「譬如工畫師」ではないけれども 心の持ち方 仏にもなるし鬼にもなると言いましたが、心の持ちようと言うものをそれぞれが自覚をして、出来るだけ私達皆が泥に染まらず、汚濁に流されるのではなくて 正しい心 清い心 そういう想いを 大切に生きて行って貰う事が必要と思う
自分の心が正しくなれば他者に対しての想いも良くなるとおもうんです
自分の心がむさぼり、欲望、怒りで固まっていたら 相手に対しても自分のそういう思いが出てしまう
自分の心持を正しくして 正しい心で正しい行いをして生活してゆく
そうすれば他者も対応して応えてくれる そういうような連鎖 繋がり がある意味
私達のこれからの平安な穏やかなぬくもりの有る
そういうような社会、生活に繋がってゆくのだと思います