かたせ梨乃さんは1986年公開の「極道の妻たち」で日本アカデミー賞優秀助演女優賞を受賞。 その翌年の映画「吉原炎上」で日本アカデミー賞最優秀助演女優賞に輝きました。 どちらも五社英雄監督の作品です。
現場では「五社英雄監督さん」、撮影を離れたところでは「お父さん」、「監督」と言ったりして呼んでいました。
五社英雄さんは1929年東京都生まれ。 五社さんが注目されるようになったのはフジテレビ在職中に制作したテレビドラマの「三匹の侍」でした。 刀と刀がぶつかり合う音や人を切る時の音など、このドラマで五社さんが生みだした効果音はいまなお語り継がれています。 さらに『御用金』、『人斬り』など五社さんが演出した映画も大ヒット、テレビ局の現役社員が映画のメガホンを取ったのは日本で初めての事でした。 フジテレビを退社してフリーとなった後も、五社さんは映画『鬼龍院花子の生涯』『陽暉楼』『櫂』『薄化粧』『極道の妻たち』『吉原炎上』など話題作を次々に手掛けます。 食道がんを患って63歳で亡くなったのが1992年『女殺油地獄』が遺作となりました。
私が20後半の時には代表作はなくて、女優と言うような立場ではなかった。 東映の方から『極道の妻たち』の脚本が送られてきて、大抜擢で自分で出来るだろうかとか、凄く迷って、京都まで行って五社監督と2日間お話をして、やろうかという事になり、何があってもこれは自分と戦うしかないと思いました。 五社監督はスタッフからの絶対的な信頼がありました。 森田カメラマンは夫婦の様に息のあった関係でした。 銀幕のスターだった岩下志麻さんがいて私は妹の役をやらせていただいて、自分では何もできなくて監督さんから一杯教えてもらいました。 監督が気に入らなくて撮り直したシーンもありました。 手取り足取り教えてもらっているうちに「お父さん」というようになっていったのかなと思います。 日本アカデミー賞優秀助演女優賞を受賞。 とっても嬉しかったです。
『吉原炎上』では遊郭の女郎役、花魁5人の悲喜を描く。 菊川という久乃の先輩女郎、冬の章ヒロイン。 物語終盤、夫を寝取られ吉原遊廓では最下層の店が並ぶ羅生門河岸の長屋女郎にまで身を落としていた。 「女優が5人も出ているが君だけは女優ではないので自分で考えなさい」と突き放されてしまいました。 炎上する火のなかを飛び出すシーンがあるんですが、中々その合図がなくて、頭に鬢付け(びんづけ)しているので頭に火が点いたら私が炎上してしまうんです。 最悪は前の川に飛び込めばいいと思っていて、合図がようやく来たので飛び出していきました。 「消化班」と言ったが、水が出なかった。 数秒でしたが。 でも監督は平然としていました。 川に飛び込むシーンをみぞれの中、何回もやって暑いのか寒いのか判らなくなりました。 夜ホテルにいたら、監督から電話がかかってきて褒めてくれました。
映画って主演がいてその人のための映画ではなくて、すべての人が素敵でないと作品は成り立たない。 監督さんにはすべてのシナリオの絵が見えているという事を感じました。 日本アカデミー賞最優秀助演女優賞受賞。 「取っちゃった。」と言ったら、「名取(裕子)が最優秀取ってないのだから喜ぶな、と怒られました。
「肉体の門」では単独主演。 食べるものもなく肉体を売って稼ぐという時代の話で、「痩せなさい。」命令が出ました。 ジムなどに行って美しく痩せるのではなく飢餓で痩せなさいと言われてしまいました。 45kg以下まで体重を」落としました。 主役を始めてやることになり、舞い上がっていたら怒られてしまいました。 自分の事しか考えて居なかったなあと思いました。 「最初5本やろうと言っていましたが、3本やって一旦卒業で、他の監督の下でやって学んで、僕の戦力となって次の作品をやろうね。」と言われました。 放り出されることに不安は感じました。
1991年「陽炎」で再び五社監督で出演(「肉体の門」から3年)、ちょっと痩せて心配な思いはありました。 「陽炎」公開の翌年五社監督は63歳で亡くなる。 監督との手紙のやり取りはぎりぎりまでしていましたが、筆圧が弱くなってきて心配でした。 信じられない思いでした。 五社監督からは、「頭で考えて芝居をするのではなく、本人に成れ。」と言われていました。 亡くなられて31年になります。 監督と話をしていると台本が立体的になって来ます。 当時は定時に終わるとスタッフルームに集まって、鍋を突っつきながら翌日のプランニングとか、いろんなことをお酒を飲みながら話したりして、良い時代だったと思います。