キダ・タロー(作曲家) ・浪速のモーツァルト 前編 幼い頃は内気な子
キダさんは独特のヘアースタイルで、学校時代音楽室に飾っていたバッハやモーツアルトの髪形に似ています。 白髪混じりのオルバック、襟足は高めです。 浪波のモーツアルトというニックネームがしっくりくるのもこの風貌からくるのかも知れません。 キダさんは昭和5年12月生まれ、92歳。 兵庫県宝塚市に生まれ、ずーっと関西で活動してきました。 一回目は生まれてから戦時中にかけての生い立ち、戦後まもなく兄のアコーディオンに触れて音楽の世界に入って行ったその経緯を伺います。
父親が警察官でしたので官舎に住んでいました。 外にあまり出なかったので庭で女の子と遊んだ程度の記憶しかないです。 父親の転勤の関係でいろんな街に行きました。 父親は勇敢で退職後に近所に泥棒が入って床下に逃げ込んだんですが、「神妙にせい。」と言って怒鳴って、出刃包丁を持った男が出てきました。 その勇敢さは私は引き継ぎませんでした。 5男1女で私は末っ子です。 昭和16年12月に真珠湾攻撃がありましたが、ヤッターという感じでした。(当時小学校5年) 日本国民のほとんどがそうでした。 娯楽はラジオ一つだけで歌謡曲、軍歌、歌曲(枢軸国のもののみ)、でした。 狭い視野の音楽を聴いていました。 軍歌の影響は強烈なものがありました。 今でもしっかり覚えています。 脳の中で勝手に鳴るんです、それが恐ろしい。
私の1年下から疎開があり、私は疎開はしませんでした。 西宮市の大空襲が終戦直前にあり、流れ弾が防空壕にブスブス刺さって、命拾いをしました。 昭和20年8月15日、中学3年生でした。 勉強はしないでベアリング工場に行って働いていました。 ラジオを聞いて、戦争が終わったという事でその時の解放感は感激と言うか、世の中が変わってしまったので凄かったです。 兵隊に行かなくていいという事がまず頭にありました。 入ってきた欧米文明が、これは大革命でした。 アメリカの音楽、スイングジャズが入って来て、「スターダスト」(ビリー・バターフィールドのトランペット)という名曲がありますが、廃墟の中に流れてきました。
一番上の兄が結核になり、寝たきりとなりアコーディオンが欲しいという事で、父親が無理をして買ってきました。 鍵盤の数は決まっていますが、イボの数で値段が決まります。イボが120あったらいっちょ前で、当時で40万円、安いおもちゃを購入、弾いてまもなく亡くなりました。 そのアコーディオンを弾き出しました。 キャバレーのステージに立ってやっていましたが、そのアコーディオンでは駄目だという事になり、ピアノに転向しました。(自分で持っていなくてもよかった。 18歳の時) 藤岡琢也(担当はバイオリン)等とバンドを組んでやりました。 3曲しかレパートリーがなくても、当時はダンスパーティーが流行っていて呼ばれて行きました。 学業はおろそかになりました。 ハンドボールでもキーパーを2年ぐらいやりました。
1年浪人して関西学院大学の社会学部に入学しました。 親から入学金を貰って払ってたんですが、籍がなかったんです。 多分大学に一日も行かなかったから除籍になったのかもしれません。 千日デパート(火事で焼けてしまったが)の前にダンスホールがあり、自分の演奏する音楽で外国の兵隊さんが踊って喜んでいるという、その喜びがありました。 「義則忠夫とキャスバオーケストラ」にいれてもらってピアニストとしてキャバレーなどで活動しました。 しょっちゅうゲストが来ました。 コメディアン、歌手、俳優。 石原裕次郎さんがデビューしたての19歳ごろで、男前で上品でした。 淡谷のり子さん、ディック・ミネさん、田畑義男さんとか温かいものを持っていて違っていました。 10年ぐらいそのバンドでやっていました。 その後作曲、編曲をやるようになって、ピアノは弾かなくなりました。 初めて作曲したのは、18、9歳で当時難波にあったキャバレー「パラマウント」の曲で、その唄を歌ったのは、当時のNo.1ホステスだった「双葉」さん(後のかしまし娘の正司歌江さんでした。
私は仮死状態で産まれて、産婆さんが両足持ってぶら下げて、おしりをパーンと叩いたらおぎゃーといって、蘇生しました。 どこかひ弱な点があり、体力には自信がなく無理なことはしないという風にしてきました。