りゅうふみえ(虐待経験者自助グループ代表)・〔人権インタビュー〕 虐待の後遺症から踏み出す"半歩"
虐待サバイバーには辛い記憶が突然鮮明によみがえるフラッシュバックや感情をコントルールすることが難しくなるなど、様々な後遺症が大人になってからもたらされることが判っています。 日常や社会生活に支障をきたす人も少なくありません。 佐賀県に住むりゅうふみえさん(53歳)仮名も父親による暴力を受け、数十年間虐待の後遺症に苦しんできました。 そうした中7年前自分や同じ境遇の人を救いたいと、佐賀県内で初めてとなる自助グループ「しょうりゅうのつどい」を立ち上げました。 症状に苦しみながらも立ち上げることが出来た背景には、踏み切った一歩、そして支える人との出会いがありました。
2015年に虐待経験者のために自助グループ「しょうりゅうのつどい」を立ち上げました。 子供のころに虐待を受けた大人のかたがたが自分の体験談をお話しする場として作りました。 話すことで心を癒してゆくような会です。 私は小学校のころからずーと死にたいと思ってきました。 周りを信用できなくなって大人になってからがもっと大きくなりました。 過換気症候群(精神的な不安や緊張などを感じているときに、自分の意思とは無関係に呼吸回数が通常よりも多くなってしまう状態)、自律神経失調症、鬱、心身症、広場恐怖症(強い不安に襲われたときにすぐに逃げられない、または助けが得られそうにない状況や場所にいることに恐怖や不安を抱く状態)、不安性障害などが出て来ました。 子供のころに虐待を受けてそういう症状が出てるという事を知っていただきたいと思ったからです。
最初に虐待を受けたのは4歳です。 1歳半の妹がいて、三輪車に乗っていたら、妹が乗りたいと言ってワンワン泣き始めました。 父が妹を泣かすなと言って、思い切り頭を叩いて頭がジーンとしてそれが始まりでした。 父は職人でしたが、弟も生まれて、給料が低いので生活が出来ないという事で転職(土木関係の力仕事)しました。 それから父の性格がごろっと変わりました。 ストレスの発散が私に来て、頭を叩かれたり下半身を蹴られたりしました。 酒を飲んで理性が利かないなか、下半身のほとんどの部分を思い切り蹴られました。(ほぼ毎日 幼稚園から小学生のころ) 中学2,3年のころ、足がボキッいったんです。 くのじに曲がった状態で膝がパンパンに腫れていて、翌日病院に行った時に、膝に注射されて、膝に水が溜まっていて黄色い水が出て来ました。 父から蹴られてとはいえなくて、跳び箱で怪我をしたと嘘をつきました。
母は止めはしなかったです。 父の攻撃が終わった後でも母は来てくれなかったです。 本当は母親に抱きしめてもらいたかったが、そういう事は一切なかった。 祖母が止めてくれたが、祖母が来た時だけはなかったです。 憎まれていると思って生まれてこなければいいと思っていました。 本当の両親はほかにいて仮の両親のもとにいて、そのうち迎えに来てくれると、そのように頭のなかで切り替えて生きてきました。 5,6歳のころ性的虐待もありました。 中学では家の仕事をやるために部活にも入れさせてもらえませんでした。 家がまずしいので中学3年生の時には高校にはいかずに就職しようと思っていました。 しかし先生から高校に行くように言われて、夜一生懸命勉強している時に「高校受かるか?」と父が聞いてきて、受かるかどうかわからなかったので「わからない。」と言ったら、頭に衝撃を受けました。 それから頭にずーっと叩かれ続けました。 最初のころは頭がジーンとしていましたが、叩かれているうちに頭が気持よくなって来ました。 このまま命を落とすのではないかと思いました。 机のところに崩れてしまいました。 でも父が「勉強せんか。」と言って怒鳴り、勉強どころではなかったが、教科書をめくるような音はずーとさせていました。 午前3,4時ごろこのまま朝が迎えられないかもしれないと思いながら横になりました。 朝7時に母が起こしに来て、生きていると思ったが、身体が動きませんでした。 それ以降の記憶がないんです、 何日学校を休んだとか。 次に記憶があるのは遺書を書いて死のうと思った時です。 でも死ぬことはできませんでした。 その出来事が一番つらい事でした。
高校には受かることが出来まして、友達が出来ましたが、なんか違和感がありました。 本を読んでその世界に入り込んで、現実を忘れられていたという事もありましたが、どうして耐えられて来たのか判らないです。 就職しても帰りが遅いと会社に電話をかけてきて早く帰るようにとか、会社はもう辞めろとか、圧力をかけてきました。 子供のころのような暴力はなくなりました。 父の支配下にあり家を出るという事は出来ませんでした。(母が病気になったという事もあり) 仕事は玩具の店を任されるようになりましたが、笑えなくなっていました。 作り笑いをしながら、心の穴がどんどん大きくなっていきました。
28歳の時に婚約者がいましたが、急にフラッシュバックして、父が犯そうとした場面が見えて、心臓がの動悸が収まらなくて、過呼吸の前兆とは知りませんでした。 30代になると過呼吸が出てきて、30代後半になると歩くだけで身体がしびれ始めました。 それが虐待によるものだとわかったのが40代でした。 家でも過呼吸が起きていて、父が怒鳴った時によく起きていました。 理性が飛んで、包丁を持って父を殺しに行こうとしたときに、母が止めました。 精神科に通っていましたが、この件を話すとこれらの症状は子供のころの虐待が原因だと言われました。
父への感情は憎しみしかなかったです。 鬱にもなりましたが、鬱になる前は体重が60kgありましたが、鬱になって体重が39kgまで落ちて、食べ物の味が全然わからなくなりました。 会社からも、同僚からもいろいろ責められました。 そんななかで生きて行きたくないと思いました。 今とは人格も違っていて、カッと来てものに当たったりしていました。 或る時会社の同僚から何か言われて、プツンと切れて、死んでやると思って会社の近くの線路に向かったが、同僚から引き戻されて、力いっぱい抱きしめられて、人の温かさを初めて判りました。 「死んだら駄目よ。」と言われました。 その人がその職場にいなたっから私は死んでいました。 40年間辛い長い時間だったと思います。 よく生きてこれたと思います。
会社でも過呼吸が頻繁にあって、首か、長期の休みかと、社長から言われて、その時に出会った本の中で、自助グループのことを知りました。 しかし佐賀にはありませんでした。 ない様であれば死のうかなと思いました。 最後の最後に再度電話したところで「よかったら立ち上げて見ませんか?」と言われました。 「え 私が」という事で頭が切り替わって、死のことはどこかに行ってしまいました。 産業医の方に自助グループのことを話したら、「そんな身体で出来るわけがない。」と言われてしまいましたが、「自分の娘だったらやってみなさい。 というけどね。」とおっしゃいました。 後日「立ち上げます。」と返事をしました。 子供のころに虐待を受けた大人の方の自助グループを作りたいと説明して、自分の虐待の体験を書いたノートを見せ、やっと立ち上げることが出来ました。
どん底に落ちた人があとは昇るだけという事で「しょうりゅうのつどい」という名前を付けました。 自分を救いたいと同時に他人も救えたらなという思いです。 1、2年経ってから段々と人が入って来ました。 同じような境遇の人に会えて正直嬉しかったです。 気を付けていることは話の途中で話の腰を折らないように黙って聞いています。 参加した人はまず「ありがとう」、「ここで話せてよかった。」と言ってくれます。 他人の温もりって、本当にありがたいですね。 「しょうりゅうのつどい」という活動を通して、段々自分が変わっていきました。 笑えなかったのに、今は本当に笑えます。 自分のこれからの人生は、苦しんでいる人達、辛い人達の助けになりたい、光になりたいと思っています。 今は生きていることが幸せだと感じています。 、苦しんでいる人達、辛い人達も「一歩一歩 半歩半歩」 光の方に向かって生きて行ってほしいなと思います。