2011年8月4日木曜日

橋爪文             ・原爆体験を世界に

橋爪文  原爆体験を世界に
<概要>
14歳の時に広島で原爆にて被爆 その時の体験をようやく最近話せるようになる 
その体験談及び原爆に対する思いを語る
余りにも悲惨で思い出したくない 早く忘れてしまいたい それが自分の本能みたい 
話をする事が出来なかった
被爆者でなければ判らない それぐらい表現する言葉がない 
1995年「少女14歳 原爆体験記」という本に纏める 原爆から50年たってようやく
体験記を書こうと云う事になる
友達に薦められ書かなきゃいけないと思った (友達 フリーライター卯月綾さん) 
書きたくなかったがどうにか書いた(命が亡くなるのが先か、書き終えるのが先か)
今も体が悪い 当時からずっと状態が良くない  逓信病院に行く為に東京に行く  
全身病・・・原爆症との関連性が難しい

海外へも原爆の話をするようになった  体調は良くなかったが 出掛ける 
3カ国/回×3回/年×10年以上という事で90カ国以上になる
1945年8月6日 の体験
14歳 旧制女学校の最後の年 病院、公官庁、等に類焼が及ばないように民家を壊して
その跡かたずけに多くの女子生徒は借り出されてが
私は運よく貯金局に事務作業員として勤めていた  
家から片道1時間(家は北 貯金局は南) 8時10分頃貯金局に着く
係長にお金を差し出した瞬間に大きな窓が鮮烈な光を発した 光線が7色に見えた 
それが集まって100にもに見えた その瞬間に太陽が目の前に落ちたと思った
と同時に気を失っていた 

気が付いたら広い部屋の真ん中に柱が何本かあるが 窓の近くからその柱まで
とばされ柱にぶつかってそこにいたものと思う
痛みは感じず、ただ真っ暗 目が見えなくなったと瞬間に思った 
訓練を以前からしていた  目玉が飛び出さないように人指し指と中指で目を押さえて
鼓膜が破れないように親指で耳を押さえて 腸が飛びださないように腹ばいに姿勢を取る  
目と耳は押さえられたがしゃがむようにしていた(狭いので)
右ひじにべっとりと液体と思われるものが感じられ、目をあけると薄ぼんやりと
見えるようになり、手にべっとりと血が付いていた
立ち上がったら体にガラスの破片が突き刺さっていた 
机の中から布をとりだし傷口と思われる処に充てた

男の人の「逃げろ」との叫びがあり、一人立ち、2人立ち、出口に向かって歩き出した 
皆茫然としている 
出口に向かう途中で電線に絡まって男の人が倒れていた 
蒼白な顔で明らかに亡くなっている 全身に怖い思いが走った 
その日初めて目にした遺体だった
3階から階段で降りてくる中途に4歳の女の子(掃除のおばさんの子)が裸で倒れている
多分きているものは爆風で飛ばされたものと思われる
その子のお腹が裂けてピンク色の腸がもこもこ湧きでて、彼女はまだ生きていて苦しく
身もだえする 掃除のおばさんがその子を抱いて助けを叫んでいた
地上に降りたら皆茫然として何が起きたのでしょう
 何が起きたのでしょうと口ぐちに叫んでいた

何人かの人が私をみて悲鳴を上げた 血がさらさらと流れだしていた
 友柳さんという女性がそれをみて抱きかかえるようにして日赤病院に運んでくれた
そこには皮膚が焼けただれて海藻みたいに垂れ下がって手をむねの前にぶら下げて
歩いている 手も顔も赤黒く焼けただれて倍ぐらいに膨れ上がっている
唇も上下にめくれ上がっている 男性か女性か判らない 
14歳ぐらいの年齢が一番多かった 痛いとか助けてとかの声がなかった
私は気を失っていった 床に横たわっていて耳だけは聞こえた 
これはひどい出血だから眠ったら駄目 死にますよ という声だけが残っている
深い気持ちのいい眠りにスーッと吸い込まれる 
友柳さんがその一言が有ったもので、眠らせないように呼び続けてくれた 
気持ちのいい眠気
命の恩人 友柳さんは原爆症で翌年亡くなる 

敵機来襲で地下室に友柳さんが引きずるように連れて行ってくれた 
皆「何があったんでしょう」とつぶやきあっていたのを聞いて 「何があったんでしょう」
と囁いたら それを聞いて生きていると友柳さんが泣き叫んだ
友柳さんが帰ったあとで日赤病院が火事になる 皆逃げて行った 
友柳さんの友達二人がいてどうしよう(当人たちも怪我)と悩む
私は「動けませんのでどうか逃げて下さい」という→私達も怪我をしていて連れてゆけ
なくてごめんなさい     ごめんなさいと言って逃げて行った
目を開けたら出口にうっすらと白い煙が見え、段々黒くなって入道雲のような黒い煙が
どっと入ってきた 

それが私のところまで来たら死ぬんだなあと思った
黒い煙の中に人影がツッと走って、だれかいるのか早く逃げろと大きな声で叫んだ 
声に押されるようにふわっと立ちあがることが出来て出口に向かって歩く
その時鏡があって自分の姿をみてしまった 
痩せて真っ青な顔をして髪の毛を垂らしておびえた目をして私の方に近ずいてくる 
襲われると思った
怖いから顔を覆った 襲ってこない 指の間からそうっとみる 向こうも指の間から
怖そうにみている 鏡に映っている自分だった 
何とか這って外に出てみると街がすっかり無くなっている まだ夢をみていると思った  
病院は窓から火の炎を出して燃えている

逃げる気力もなくたたずんでいたら16歳の少年飯田さんが当人も重傷を負っていたが、
火のなか一緒に残ってくれた(見知らぬ少年だったが) 
日赤病院の植え込みに松の木があり、松の木陰に連れてってくれた
(火の粉が雨のように降ってくるので、避けるため) 一晩そこで過ごす
その朝飯田さんは妹と二人で家の下敷きになって彼はどうにか這いだしたが、
妹は深い家屋の下敷きになり一生懸命やっても駄目だった
そのうち火が回って来て 「熱い 熱い お兄さんお水かけて」と叫ぶ バケツでその
方向に水をかけてやるが火のてが回り、「お兄ちゃんありがとう 早く逃げて」
と云ったそうです 母の元に行こうとして川を渡り日赤病院にたどり着き私と会った 
妹さんの代わりに私を助けてくれたのでは
眠って目が覚めたら飯田さんが見えずはじめて恐怖を感じた 
 
探そうと目を向けた処に彼が見えて、ヤカンに水を入れて亡くなって行く人の口に水を
与えている姿をみる
一晩中水を与えていました そんな中で趣味はと聞かれ私は読書と答えたら
「僕は読書と音楽です」という 「音楽は神の言葉です」と云った
無くなってゆく人に対して水を与えている姿をみて 神が此処にいると思いました  
飯田さんは10年後に交通事故で亡くなった
次の日は大分寒かった 南の方に叔母の家があり、叔母と対面する 
家族は無事であることを知る  
飯田さんからは治療してもっと元気になってから行くように言われたが、母に会いたくて
振り切って家に向かって北へと歩きだす(止まったら倒れる様な歩き方)
全滅した広島を縦断する(5~6km) 立ったままの白骨とか、水がなくなっている
水槽にある一杯ある白骨、不思議なことが一杯有った

生きているものを全然見えない中進むと 3人の人が肩を組みあうようにしてよろよろと
歩いてくる 母と叔母と姉だった(本当に偶然)
感動とか喜びとか喜怒哀楽を飛び越したところにいたのではないか
 3人ともガラスの破片だとか木片が身に刺さっていた
母は右腕がぶら下がっていた 叔母は頭をやられてふらふらしている 
姉は顔が膨れ上がって目が見えない 目が見える母に皆が寄り掛かって歩いていた 
本当に喜びとか悲しみを超越して、衰弱の極みというかそんな状態だった 
弟は小学校一年生だった 鉄棒で遊んでいて後ろから光線を浴びて
前は綺麗で後ろは血も出ていない 皮膚が全部めくれていた 
校庭で弟は亡くなりました
その後医療の援助はなく自然治癒、水はなく雨水を飲み、食べ物は草が10cmぐらい
になるとそれを食べていた