2011年8月16日火曜日

山内晴子(玉川聖学院講師)     ・朝河貫一に教えられたこと

山内晴子 (玉川聖学院講師)   朝河貫一に教えられたこと
<概要>
 朝河貫一を知る事により其の生涯を調査 博士論文とし 仕上げる 彼の生涯、
考え方(民主主義 戦争回避の行動 戦争反対 その他)を纏める
「朝河貫一論:その学問形成と実践」を出版  10年掛る
日本人として初めてアメリカの大学(イェール大学)で正教授となった朝河貫一(1873~1948)
きっかけ 増田弘教授の日本近代近代外交史のゼミで朝河貫一を知る  
2004年山岡先生の早稲田大学アジア太平洋研究科の国際関係学博士課程に入学
2008年に書き上げる
朝河の父は福島にあった二本松藩士父は旧二本松藩士朝河正澄戊辰戦争で戦った 
 
小学校の校長でもあった父正澄の影響の大きかった少年期における朝河の知的精神的成長 
早稲田大学に入学 坪内逍遥大西祝(倫理学者) にかわいがられる 
六ヶ月後に洗礼を受ける 
東京専門学校が、キリスト教的知識人以外に知識人がいなかった19世紀末の欧米の
影響下にあったことを、新資料を用いて検証
大西や坪内逍遥から思想的学問的基盤を獲得
在学中に日清戦争が起きる 
1895年(明治28年)、大西祝、大隈重信 、徳富蘇峰勝海舟らに渡航費用の援助を
受けてアメリカへ渡り、ダートマス大学へ編入学

朝河の理想とする個人を尊重する「民主主義」を、ダートマス大学のタッカー学長の
リベラルなプロテスタントの信仰から学んだ
寛容なプロテスタントの理にに基づく民主主義というものを体得してゆく
寄稿文の第1文目に毎朝礼拝で大学が始まる 
タッカー学長 「教育を受けた人は勇気ある道徳的存在として社会を改良する責任がある」
「自己犠牲に徹して人類に奉仕することこそが人生の本源である」という事を話をする
タッカー学長から体得した民主主義というのは国家至上主義の対極にあって集団ではなくて
個人一人一人を大切に考えて、個人相互の敬愛と信頼に重きを置く民主主義

一人ひとりが違っていること 多様性を奨励して 又反対の意見も平気に淡白に面と
向かって説く事が出来る精神 自由な意見交換を奨励している
他人の成功を喜ぶ度量の広さ ユーモアを忘れない そういう民主主義というものを体得してゆく・・・タッカー学長からえたもの
朝河は「日本の対外方針」という論文(24歳の時の論文)を国民の友に発表する  
ロシアの強硬な南下で日露戦争は不可避であると考えて書く
人種も宗教も違う日本が世界で役に立つ国になるには日本の方針を文明最高の思想
と一致せしむるに至りて初めて東洋における義務を悟り世界に対する
地位を得るんだと云っている  文明最高の思想=民主主義

ラングドン・ウォーナー→京都を爆撃から救った人 この人に100ページの論文を送っている 
この論文の冒頭に「私は民主主義の重要性に気付いて以来、アメリカにおける私の
長い生涯の間たった一人になっても民主主義に踏みとどまってきました」と書いてある
「民主主義は他の政治体制に増して市民にふさわしい良心を持とうと市民一人一人が
個人的責任感を持って初めて成り立つと固く信じております」と書いてある
ずっと民主主義を心に留めながら一生涯を送ったと思う
ダートマス大学で教えている時に日露戦争が勃発する 

戦争後ロシアの利権を受け継いで日本が排他的外交を取るようになる
それを心配して朝河は1909年に「日本の禍機」はこのまま続けば日米戦争は免れず、
必ず日本は負けると強く警告している・・・この時から日米戦争阻止を訴え続けている
大隈重信に対して多くのいさめる書簡を出している(1908~1915年)
今は日本は東洋平和を乱す張本人だと信じられちゃっている 
其の原因は日本が世界の文明の新傾向を十分に判ってないからだと云う事
新しい傾向とはどういう事かという事を大隈重信に書く訳です 
このままだったら文明世界の憎まれものになってしまう ・・・聞き入れられない
朝河貫一氏は日米戦争阻止を幅広く提言されたが結局受け入れられなかった
1938年 甥の斉藤金太郎に手紙を書いている 

もう新聞で真の戦況を国民に知らせていないのが、今後日本に大損害を招く事になり
罪もない忠実な一般人が
最も気の毒でありますと心配して手紙を出している
国民が正確な情報を自由に入手する事が出来れば、戦争という事も防げると云う風に
考えて情報の自由な入手をとても何時も主張している
村田勉という日本女子大学の人  一緒にイェール大学に学んだ人 
オープンレターをだしている

鳩山一郎に回覧している 1939年7月29日の書簡では26日のアメリカの
日本通商条約の破棄は驚かれたろうが、議会で皆賛成である、従来しきりにイギリスを
侮ってアメリカの好意的中立を頼むのは如何にも日本が客観的に現実を見る目がふさがれ
ている証拠だと云う風に書いている
1940/1/28にも鳩山一郎に書簡を書いている
何故日本の政府がたびたび変わって小人物がしきりに出没するようになったのか 
と書いてある 昭和2年から20年までに17人総理大臣が変わっている
何故利害が少ないドイツと国運を結ばんとして失敗したか 
何故もっとも将来にとって国運が繋がっていなくちゃいけない英米を敵としなく
ちゃいけない事になちゃったのか

もし満州事変以来の態度を継続していたらもう国は危機という言葉は今ほど妥当する
言葉はないとう風に鳩山一郎に書簡を出している
それでもやはり日米戦争は突入してしまった  
朝河氏の祖国を思う気持ちが伝わってくる
1941年(昭和16年)11月、日米開戦の回避のためにラングドン・ウォーナーの協力を
得て、フランクリン・ルーズベルト大統領から昭和天皇宛の親書を送るよう、
働きかけを行った
1941年10月10日付「金子宛英訳書簡」 、ラングドン・ウォーナーをして、天皇へ宛てた
ルーズヴェルト大統領の親書を朝河に提案させ
また天皇制度に関する学説を欧米知識人に再確認させ、天皇のみが軍国主義者の
退場を説得できると朝河が説いた

ルーズヴェルト大統領の奏書 スティムソン国務長官、ハル国務次官、アーチボールド・マクリューシュ
議会図書館長をへてルーズヴェルト大統領に渡っている
日米開戦後の12月8日にニューヨークタイムズに掲載されたルーズヴェルト大統領の天皇宛親書は
一部朝河の草案と重複しているが朝河の意図したものとはかけ離れていた
12月10日にウォーナー宛で「外交とは相手の精神の理解を通して自分の目的を達成する
に有ります」という風に書いてある
朝河は日本が負けることが判っているから直ぐに日本の戦後構想を描き始めている
「私のたった一つの望みは軍部を改心させる事ではなく彼らを追い払う事が出来る
ただ一つの権力すなわち天皇による追放の可能性だ」と書いている

西暦645年 大化改新 1868年 明治維新  これと同様です  
天皇の詔勅によって皆の従う事になって国民は見事に直ちに忠誠心を持って改革した
んだから今回もそう言ったことにしなくてはいけないというわけです
軍隊は天皇が命令しなければ追い払う事が出来ないと云っているわけです
ウォーナーは何故朝河に大統領親書を提言したのかなあという風に、他の人じゃなくて
朝河に提言したのかなあって思っていたのですけれども
ボートンと云う人がいるが戦後日本の設計者と言われた人 、
ボートンの回想録にアメリカで天皇制廃止を主張する派が制していた1945年の9月に
グルー国務次官も
自分たちも天皇も天皇制も、それ自体戦前日本の超国家主義や拡張政策の原因では
ないと固く信じていたと書いてあった

ボートンと云う人は朝河の諸論文は欧米の学者たちにとって基本的な日本の文献だと
考えていた
朝河の論文の中にボートンやグルー国務次官をこれほどまでに確信させる発想の起源が
あるんじゃないかと私は考えた
朝河の論文1903年に出版した「大化の改新」とかロッジヘンの「ヒストリーネーション」 のシリーズ
の中の「ジャパン」というのがある
それの明治史を書いている  入来文書 マロクブロック ソロボン大学の人と封建制について
共同執筆した

朝河は日本の歴史に於いて圧倒的に優れた異文化を習得して適応する制度的な
大変革を成功させるカギは常に天皇個人ではなく天皇制度である
皇室は長い世紀に渡って存在したが、専制的であった事は少なかったという学説を
繰り返し主張していた
たぶんそれが天皇制 朝河の戦後構想 天皇制と民主主義の共存の異文化融合という
感じですね
民主主義それは結局 敗戦したら日本は民主主義にならなくてはいけないそれを
成功裏にスムースに移行するためには天皇ではなく天皇制にあると彼は云っている

天皇制をうまくつかったほうが日本の占領政策が出来るというアメリカの政府関係者、
世論、が考え出したのはヒュー・ボートンライシャワー等の人がいる
それを裏付ける資料 アメリカ学術団体評議会1930年に日本研究委員会 
太平洋問題調査会 会長ジェロム・グリーンと云う人の要請で7人の中の一人として
1937年まで務めていた 
ボートンとライシャワー、ファーズの3人が最初に出会ったのは日本研究委員会がハーバート大学で
開催した第一回日本セミナーです

この3人は委員会が最初に派遣した留学生で東京大学に2・26事件前後に留学している
1942年9月のライシャワーメモがあるが、これも天皇に関しては朝河と理解がおんなじなんです
日本研究会が育てたボートンは日本研究会1937年に朝河と交代でメンバーになっている
1941年ファーズが日本研究委員会のメンバーになっている 
ライシャワーも通信メンバーになっている 
ボートンは1942年には国務省特別調査部の調査アナリストになっている 

日本研究委員会のメンバーが極東政策の立案と遂行を通して朝河の学説に基づく
天皇制度と民主主義共存の異文化融合の戦後構想を最後まで貫いたことは注目に値すると
おもっている
日本の天皇を(慎重に名前を挙げずに)平和のシンボルとして利用すること プロパガンダ
 天皇の扱いは明らかに異文化受け入れるときにそれをスムーズにさせる鍵は
天皇個人ではなく、天皇制度であると云う学説を知っていなければ設定できない宣伝文
句じゃないかなあと思う

1942年の夏にマッカーサーも読んだことが記録が残っている
日本計画が天皇制を残す基になったもので学問的起源は朝河の学説ではないかと思っている
とにかく戦争への道へは辿りたくない どうしたらいいかをいつも考えている