2011年8月3日水曜日

黒田征太郎(イラストレーター74歳)    ・広島を描き続けて 2

黒田征太郎(74歳)イラストレーター 広島を描き続けて
小倉で1945年8月9日に原爆投下の計画があった 偵察機が飛来して、OKを出せば
小倉に投下するはずだった 
奇跡的に免れ長崎が犠牲になった
当時小倉には大きな軍司令部があり、八幡には製鉄所があり重要拠点であった
出身は大阪・道頓堀の生まれ 昭和14年(1939年) ポーランド グラニスクにナチスドイツ
が電撃攻撃を加えた年
父は炭鉱夫 (筑豊) 炭鉱を抜けて関西 鉄工所を作った 
戦争景気に乗っかって大きくなった 芸者をしていた母親とのあいだに私は出来た子供です
(正式には結婚せず)

神戸・西之宮に移る 国民学校に入学 爆撃を受け 滋賀県神崎郡能登川町に疎開する  
翌年父親が亡くなる 帰れずにそこで10年間暮らす
空襲体験 大阪炎上しているのを見ている 神戸大空襲も体験  
野坂氏の「火垂るの墓」はこの辺界隈を舞台にしている(30年前に野坂氏と一緒にこの辺を
歩いた)
野坂氏は9歳年上で多感なころだったのでグッサリ胸に刺さっていたと思う
戦争というものは終わったから全部終わると云うもんではない 
戦争は終わってから戦争第二部が始まってくる
貧乏のどん底に向かって転がり落ちる そのたびに家が小さくなる 

ある日東海道線の能登川駅のホームの端っこに被災された女の方が置かれている 
多分広島から逃れて8/20ここに来るが無縁仏ケロイド状でウジ虫が一杯湧いている
新型爆弾(原子爆弾)にやられたんやなあ・・・原爆との最初の出会い
西宮にいた時大阪の空襲を見て友達が疎開して広島仁行った 
その友達が新型爆弾で亡くなった 2つの体験有
日本の強いイメージが スーと消えて凄く強いアメリカが GIが白馬の王子様というイメージに
変わった あとはアメリカ アメリカだった
中学卒業すると魚屋になろうかと思ったが駄目で、母が高校に行ってはと言われ高校
に進むが、面白くなく家出する
 
船の作業員 労働者、水商売バーテン見習い
人を脅して金を貰ったりした 夢があって漫画家の手塚治虫氏に物凄く憧れていた 
労働者として働いている時でもヒョイとその夢が出てくる
印刷物、雑誌に係わる何かをやりたいと思った  
高校一年中退では駄目→図案部だと体験者でならはいれるかも知れないと耳にはさむ
早川 良雄先生の門をくぐる→初めて信頼出来た大人 早川先生 長友 啓典 
(デザイナー 現在の相棒)が実習生で来る)
気が付いたら三度の飯と同じくらい絵を描くのが好き 絵の神様がいるんじゃないか
絵の神様に対してだったらなんでもやるよといった感じ

一時TV、雑誌等売れっ子ア-ティストの存在→最初面白かったが(有名人として心地
良かった)直ぐに飽きてしまった→止めようと思った(マスコミから出なくなっていった)
自分を考えて行った(おれって何だろう) 
欧米コンプレックスの塊が自分ではないのかなあと思うようになる
邦楽、演歌等嫌だった かっこ悪い・・・日本的なもの、アジア的なものから遠ざかろうとし
ている自分に気付く
このままひょっとして死んだら自分というものが何も無し →東京にいてもしょうがない 
向こうに行っちゃえば自分が見えてくるのではないかと思った

ヒョイと行ってしまった 気が付いたら17年間いた 行って良かった 全部自分でやる 
人間出来る間は自分の事を自分でやるのがいいのかなあと思う
欧米コンプレックスが取れたかなあと思う相変わらずアメリカが好き
 前よりはるかにアジア、極東アジア人だと云う自覚もある
2001年同時多発テロ 無力感に襲われた 一瞬だけどもう絵なんか書くのは止めようと思った
気が付いたら 絵ハガキに一杯書いている
 ワールドトレードセンターが崩れてゆく噴煙が妙にきのこ雲と重なってしまった
ブッシュがグラウンドゼロを演説 私は率直にそれは違うだろうと思った 
(貴方達がそこを聖地と言うなら我々にもある広島、長崎、東京、大阪)
被災地も今後どんどん厳しくなる  ピカドンプロジェクトを進めている 

自分が一番関心があるのは子供 皆目がキラキラしている 
あと15年経ったときどんな時代をみるのかなあと思うといい時代じゃないのかなあ
このままだと、と思う
何かしないではおられない  遊離してしまっているよう、終戦処理うやむや 
沖縄 基地 我々の世代の責任 野坂氏から順々に教えてもらった
日本列島の中で暮らしていた時代はいいが、世界がどんどん狭くなってくると
そうはいかない
切磋琢磨して他民族と一緒に暮らしてきた人達は喧嘩もするが、
徹底的なところまでやって、ルールをしっかりと決める  そういう時代に入って行っている
少なくとも大人と言われている連中は個々が独立するべき 自分は何が出来るのだろうか 
やるしかない 

今度大阪の子供たちと生きることで一緒に絵を書いたりする 
それは三宅一生さんから一緒にやろうよと声を掛けられた
我々は太陽の力を借りて生きているのだからあまり太陽をないがしろにしないでおこうと
云うのを童話仕立てで作っている
火の粉が人と太陽との媒介で、暗くさびしい生活をしていた人類の昔の昔の祖先が
火を手に入れたい と願い 貸してやると どういう風に使ってもいい
ただ火の神様(太陽)が殺すな 殺してはいけないと云う それは簡単ですと火を貰う
 いろんな便利な事があったり 楽しい事があったりした
ある時 火で人を、他の動物を殺せることに気が付く 
そこから物凄いスピードで原爆まで行ってしまう ・・・童話作りをしている