2011年8月20日土曜日

山泉進(明治大学副学長)     ・大逆事件100年 幸徳秋水の思想

山泉進(明治大学副学長)  大逆事件100年 幸徳秋水の思想 
<概要>
早稲田大学大学院 政治学研究科卒業 日本政治史(社会思想史)
自由」「平等」「博愛」を掲げた平民社の理念が,どうして「大逆事件」という結末にいたる
のか 歴史を振り返り その底流に流れるものを考える
坂本清馬と父親は懇意にしていた
1910年 一部の社会主義者の天皇暗殺計画を理由にして数百名の人が取り調べを
受けた 社会主義者、無政府主義者が弾圧された・・・大逆事件
日露戦争後、日本の社会主義の運動というのは日露戦争に対する戦争反対 
非戦論と当時は云っていたが 平民新聞を出すことで それを展開してゆく
これが日本の社会主義運動の運動としての開始になる  
その後弾圧を受けて地方に読書会のような形で地方にクラブみたいなものが出来てゆく
地方の人達を集めて日本社会党というものが出来る 
桂から西園寺内閣に代わって作られる 

西園寺内閣というのは社会主義運動に対して寛容で、西園寺自身がパリコミューンの頃
フランスにいたと云う事もあり 有る程度社会主義も合法化して
運動として穏健な社会主義を育てた方がいいと云うのが西園寺達の考え方でした
藩閥 山縣 有朋桂太郎らは反対でした ここに政府の中に対立関係が有る 
強圧的に余り国民の意見等は聞かずに国家利益を優先してゆくグループと 遡れば
伊藤博文から来るが政友会を作って有る程度政党の中で国民の意見を聞きながら
政治を運営しえてゆく必要があるグループが対立
山縣 有朋達は社会主義者に対して非寛容でとにかくこれを潰さなければいけない
 西園寺達はある程度合法化して穏健な社会主義を育てて行こうとした
このグループの対立が有った 結局大逆事件の背景に有ったのは西園寺達のグループ
が社会主義者に対しての取り調べが生ぬるいと云う事で
政権内の争い(エスケートボード)にしてしまった側面が非常に強い
 
山県、桂達は国家主義者で軍の方の出身者ですからあくまで日本の国家利益を優先
し国家運営する
それに対して有る程度国民の意見を聞きながら進める  
こういう政治対立の中で大逆事件が起きる
幸徳秋水が大逆事件の中心人物として1911年に39歳で処刑される
幸徳の生まれて中村というところは土佐の小京都と言われた処 高知の中心とは
文化的に違う 自由民権運動は全県的に起こってくるが、隣町に宿毛市があるが
沢山の民権家が育ってゆく 
吉田茂等もこの系統になってゆく 
早稲田を作った小野梓 林有造 こういう人達が出てゆく
中村という街は徳川時代の初めに城下町だったが弾圧を受けて3万石の御城が潰され
てしまう 
それ以降町人の街になる

幸徳は元々は京都の陰陽師の流れをくむと云われているが 中村に来て町人として
成功する
秋水は俵屋と云う商家の跡継ぎとして生まれる 
氏族とは違って寺子屋等に通っている 大変頭の良い子であった 
しかし体が弱かった事と父親が2歳で亡くなる
母親が苦労して育てる 後に社会主義者になってゆく一番の原因は 若いころ日記に
不満を滔々と述べている 自分の人生がうまくいかないと
人間少しはうまく行くところがあるが自分はまったく巧く行かない 
それは環境的にもそうだし、性格的にもそうだ だからどう仕様もない 
逃げ道も無い

私は幸徳秋水の不平というのですが 社会に対する不満というような事が非常に強くて
、その分逆に中江兆民と会って理想に走ってゆく 
子供の時に恵まれて理想に走ってゆくと云うのではなく、不満で不平が有って、それを
ばねにして理想的なものに近づいていった、というのが秋水の思想を作って行った
中江兆民の書生をしていた 
明治20年に保安条例が出され土佐派を中心に当時の大同団結運動の流れがあるが、
そこに加わって行った民権運動家達が
中江兆民:フランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーを日本へ紹介して自由民権運動の
理論的指導者となった事で知られ、「東洋のルソー」と評される

東京から追い払われる 兆民も東京から追い払われる 秋水も16歳ぐらい東海道をと
ぼとぼ歩いて帰った 伊藤博文を嫌っていた(伊藤が保安条例出す)
兆民は父親のような関係(親を早く亡くしている) 思想的に兆民の影響を凄く受けた
 秋水には英語を教える 漢文を徹底的に教える
自由、平等にこだわった人(兆民) 秋水は兆民の思想の真髄を受け取って行った 
1903年に朝報社を退社する  
日露の衝突というものが非常に顕著になって来て 主戦論と外交的な努力によって
日露の衝突を回避すべきだと分かれてゆく
ロシアの撤兵計画が有るがロシアが撤兵しないということで、『万朝報』が非戦論から
主戦論に変わってゆく

そこで、幸徳秋水、堺利彦内村鑑三が、『朝報社』を退社する 幸徳と堺が平民社と
いう新しい団体を作って非戦論を掲げてゆく
平民新聞を刊行 (1903年11月15日創刊号) 
1905年アメリカに渡る サンフランシスコにサンフランシスコ平民社 に身を寄せる
1906年(明治39年)、第1次西園寺内閣が成立  西川光二郎らによる「日本平民党」の
結党  続いて堺利彦らを中心に「日本社会党」が結成
ロシアからの亡命者がかなりサンフランシスコにいてその人達と議論をした 
 アナキストのフリッチ夫人やアルバート・ジョンソンらと交わり、アナルコ・サンディカリズムの影響を受けた
(アナルコ・サンディカリズム:無政府組合主義)は、社会主義の一派、労働組合運動を重視する
無政府主義のこと。
アナルコは無政府主義、サンディカは労働組合のこと)

1906年4月18日 サンフランシスコ大地震が起きる(サンフランシスコが壊滅する)
秋水がそれにでっくわし、お互いが助け合いする様子をみる→権力がなくても人々が
幸福に生きていけるんだと思った(実際は戒厳令で統制・ボランティア活動等)
秋水が無政府共産主義に傾いてゆく大きなきっかけだったのではないかと思う
平民新聞の創刊号で「自由、平等、博愛」を謳っているがこれが秋水の根幹になって
いると思う
自由=民主主義 平等=社会主義 博愛=平和主義  
こう云う考え方になってゆく
秋水は無政府共産主義を言い出してこれが結局大逆事件の逮捕に繋がってゆくが、
当時の社会主義というものを否定する

20世紀初頭 第一次世界大戦前 社会主義勢力というのは非常に強くなる 
フランス等もそうですが、社会主義者達が大臣になったり議員になったりする
そうすると社会主義とは秋水が考えていた理想よりも現実的な出世の為の手段になって
しまっているんじゃないかと思う
社会主義も一つの権力になっていると云う感じ方をした ・・・
それを否定して秋水は無政府共産主義に傾いて行ったと思う
今考えると、1917年ロシア革命なので社会主義が地上に実現するのはちょっと後 
1989年ベルリンの壁が崩壊する 1991年にソ連が崩壊する

如何して社会主義が崩壊してゆくのかという処の一つは秋水が「自由、平等、博愛」と
いった 市民社会の基本的な原理 そこを実現しないまま革命がロシアや
中国もそうですが非常に遅れた国で革命が起こってしまったために非常に強権的な
権力的な全体意識的な体制が生まれてしまった
今になって考えると意外と秋水達 これはのちに大杉栄達に受け継がれてゆくが、
大杉はロシア革命は間違っていると云う 
幸徳秋水達が社会主義というものを権力主義的な有り方だと批判したのはある意味では
先見の明があったということも言えるのではないでしょうか
アジアの中に日本の社会主義を置いて考えることがこれまでなかったんですけれども
、最近は秋水自身が漢字文化圏で育った人なので
中国の古典にも詳しいし、東洋的な思想(特に老荘思想)幸徳秋水が自分の理想社会と
いうものを描いている中に桃源郷と云うのがある

日が昇り、目が覚めて、日が落ちて眠る 昼間働いて 小さな村で平和に暮らす 
近代的な自由、平等な社会というよりも ああいう牧歌的なのどかな田園的な
社会みたいなものを秋水はどこかで描いていたと思う
東洋的なものの考え方が有ったと思う 
平民新聞が廃刊になった後 アジアの留学生を組織して亜州和親会(中国の革命家達
、ベトナム、インド朝鮮半島)を作って
アジアの人達の連携を図ろうとする 中心にいたのは幸徳秋水、大杉栄等 
幸徳らは常に人類、人類ということをいう 
民族だとかを越えての人類としての・・・問題意識を抱えて 平民新聞の思想、
幸徳の思想を支えている
改めてアジアというものと人類というものを繋いで明治期の社会主義というものを評価する
必要があると思う

奥宮健之(53歳大逆事件最高齢)、岡林寅松、小松牛治、坂本清馬
幸徳秋水だけではなくて上記の人達の検証をやる必要があると思っている
大逆事件は冤罪事件であることは間違いない 
如何して起こって行ったのかという事 原因については中々難しい
一つは桂等に言わせると社会主義を根絶するんだと・・・天皇を中心とする国家体制、
国体と合わない だから思想自体を潰してしまうんだと云う考え方
その背景は山県だとか桂だとか軍閥、藩閥中心の人達の国家利益を中心に考えてゆ
くと少なくとも幸徳秋水みたいに現在の国家に満足をしないこういう不満分子
は生かしてはおけない 
 
反体制派を弾圧するという側面がある 
社会主義運動は日本の体制をひっ繰り返す影響力が有ったかというとほとんど
ないわけです
ごく一部の人たちの運動だった
 しかも中が二つに割れて幸徳秋水の一派と片山潜を中心とするもう少し穏やかに
やろうと云う派があった
韓国併合の時期でもあり反対する勢力を弾圧することによって国民に対してはっきりと
した国家意志というものを見せようとしたものと思う(ショーのようなもの)
自由気ままに言わせない 
平沼 騏一郎は東大を出た後に司法省入る大逆事件の時は民事と刑事と両方の局長
ナンバー2のポストにいる 
検事としては検事総長の次の地位にいた
日本の国家官僚 エリートたちが地位を築いてきた 
官僚体制ががちっと固まってくる時期です

平沼は司法省官僚でここを舞台にして出世の階段を見つけてゆく  
利権がからんでくる 政治家の汚職事件、財界の汚職事件が起こってくるが
これを平沼達は取り締まるわけです それで政治家の弱みを握る 
財界人の弱みを握る こういうのを材料にしながら彼らが背後から政治を動かしてゆく
平沼達のグループは皆出世をしていって最後には総理大臣にまでなる 
ある種の階段を登るシステムをこの人たちが作った 
そのきっかけが大逆事件だった
1910年(明治43年)の幸徳事件(大逆事件)では、検事として幸徳秋水らに死刑を求刑した
1960年に再審請求を支える市民団体として作られる
 1961年に再審請求する 1967年に棄却される(最高裁)
 法律的にいうと大逆事件は有罪となる
大原聡(私の先生)が引き継ぐ 1983年私追悼集会があり私が事務局長を引き継ぎ、
今日までやっている

初代局長が弁護士の森長 英三郎 大逆事件の再審請求も担当  
事件を明らかにする会の事務局長 
12人が処刑 12人が無期懲役 
刑死した人物は、幸徳秋水、管野スガ、森近運平、宮下太吉、新村忠雄、古河力作、
奥宮健之、大石誠之助、成石平四郎、松尾卯一太、新美卯一郎、内山愚童の12人
(管野 スガ:赤旗事件で投獄され、出所したのち寒村とは離婚。
そののち幸徳秋水と同棲しアナキズムに共鳴する 天皇暗殺を密謀したとして起訴される)
この事件の持っている歴史上の影響力 いろんなドラマがある (魅力のある人達) 
大逆事件は日本における鉱脈だ・・・ここを掘って行けばいろんなものが見えてくる 
例えばマスコミの有り方 報道の仕方 一つとってみるといろんなことがある
報道規制、報道規制が起きても外国に伝わって外国で抗議運動が起きる 
というようなこともある 

そもそも権力とは一体何だ という事を考えた場合 
権力というのは具体的に見えるもんではなくて 言葉でもって整理をされて判決文という
ものは良く出来ていて
文字通りこの人たちの人生や思想を非常にうまく整理して駄目だと云うんですね
そして権力とは何かというとその人間を何か言葉にしてその言葉をうまく当てはめて
(刑法上の)纏めてしまう
だから大逆事件をみていると誰が悪いんだとかいう個人の問題というよりも権力という
ものが持っている性質そのものが見えてくるような気がする
検察の問題なんかもそうですが、まったく同じ 
当時の警察のストーリーを描いてそのストーリー通りに自白させて自白を中心にして
有罪にしてゆく構造

いろんなものが100年経って変わっているようで変わっていない 
大逆事件をみていると今我々が生きている時代をみる一つの鏡みたいになっている
気がする
人の内面に訴える力 これは幸徳秋水は手紙・遺書を残したり(獄中なので規制ある)
している 
人間そのものが出ている様な手紙なんですね
人間とは何かと考える上でもこの事件を通していろんなことが判るような気がする