6年前から希望の平和学を教えるようになる
教師として子供たちへ戦争・原爆の悲惨さを教えてきた
退職して振り返った時に悲惨さしか教えてこなかった事に気付く
子供たちの取って平和教育とは楽しくなかっただろうなあ、暗い気持の中1時間の授業を過ごしたんだろうなあ
新聞にアンケート結果が出てショックを受ける
①今後核戦争は有ると思うか・・・80%があると答える
②核兵器無くせるか・・・70%がなくせないと回答
如何して日本の若者たちは悲観的な考えなんだろうとジクジたる思いをした・・・ 悲惨さだけを伝えても悲観的な想いにいたり、希望をもたせる伝え方をしないといけないと思う
その後は希望を持たせるような伝え方に変更した
国民学校3年生の時(8歳)に爆心から4kmの処の防空壕の前で被爆する(熱線を浴びる) 1945.8.9 午前11時2分
何があったのか何も分からなかったが、左ほほを思いっきり引っ叩かれたような感じ 防空壕に突進して奥の壁まで逃げる
爆心地から500m地点 浦上天主堂 、城山小学校(全校生徒1500名中1400名が死亡)
先生を目指すために大学教育学部に入る
先生になり25年間は暮らしの中で被爆の経験について話すことはなかった
1970年に被爆教師の会が生まれる(広島は1969年に発足)
被爆教師の会として何をやるかを話し合う
①長崎の子供たちの意識調査・・・戦争、原爆についてどのように思っているのか?・・・その結 果が私を変えました
原爆や戦争の話を誰からあなたは聞きますか?・・・先生からというのが一番少なかった
長崎に原爆が投下されたと云う事実について・・・・・知らない子供達が一割いた
私は今まで被爆者と教師とは別々のものだった
被爆+教師→被爆教師になる・・以後戦争、被爆に対して積極的に話すようになる
手探りの原爆教育を進める
②原爆登校日 登校日は以前は1の付く日だった 8/9に変更するように運動する
3年後に70%実施するようになる 現在は100%
自分の担当クラスの被爆者手帳を持っている人が半分ぐらいいることが判った
クラスの親に被爆当日の事を書いてほしいと要望し、その文をわら半紙に印刷して子供たちお よび親に読んでもらった
「あの日」 1945年8月9日 午前11時2分 ここがスタート (広島は8/6 午前8時15分)
死者7万4000人 負傷者7万5000人 系統立てて学校では教えてなかったが教えるようになっ た
改めて原爆は私たち人間にどんなことをしたのか を知って行った・・・結構衝撃を受けている
当時被爆している親が沢山いたので原爆教育に対する反発は親からはなかった
行政からはあった
③原爆教育、平和教育をどう教えればいいのか?→冊子を作る・・・足がかり
組織的にやってないので 1年間のやってきたことを持ち寄ってみよう
実践記録を持ち寄りお互いにそれを基に勉強しよう
その中からまとめあげて冊子を作成する
発達段階に応じて教える
子供たちの手に何も持たせていない事に気付く→原爆についてのやさしい、正しい読み物 これがない
④学年に応じた中身を提示する・・・本作りをする
36年間 原爆、戦争に付いては命、生き方に係わる分野だと思う・・・自分では思っていた
定年までは自分なりに平和教育に力を注いだつもりはある
原爆がもたらした悲惨さと将来は皆さんがこんな風になってほしいんだという意味で希望を語るその事を付け加える
定年まで話していて欠落した部分を補うと云う仕事を今はやっていると思う
66年前に人間が作りだしたもの必ず寿命が来るはずである 必ず核兵器は無くせる・・・希望を持ってもらう