増田惠子(歌手) ・【わたし終いの極意】 過去の私を抱きしめて
1976年にピンクレディーとしてデビューします。 その活躍、社会現象にもなりました。 その後ソロでビューを果たしてから今年で40年、記念アルバムをリリースするなど精力的に活動しています。
*「Del Sole」 歌:増田惠子
「それより踊ってみて 過去をかかとで蹴り上げて あなたのそのつま先 前を向いてゆくでしょう」 という出だしの歌詞がかっこいいですよね。 私も元気を貰える歌詞です。 嬉しかったことや悲しかったことが沢山ある、そういう私と45年間ずーと私を応援してくれたファンの方々と一緒に生きてきたその自分が自分の両手で優しく抱きしめて、そしてまた一歩一歩前に進んでゆく、大丈夫よこの道は、だからみんなついていらっしゃいよっていう、だから恵ちゃんがそういってくれるからついていきたいなって思ってもらえるようなこれからの人生を喜びを分かち合い、悲しみはかかとで蹴り上げようって、「そしてこれから・・・」にしようと決まりました。
40年前は24歳で、デビューして「ペッパー警部」からの4年7か月は壮絶な時間でしたが、誰にも経験できない素晴らしい時間を二人で紡いできたんだなという事と、その後ソロデビューしてからも沢山の人に恵まれ、有難いと言うしかありません。 40年、いとおしい時間でした。 30代後半までは体はトレーニングしていましたが、ボイストレーニングはしていませんでした。 或る時ミュージカルをやる機会があってボイストレーナーに付きました。 ボイストレーニングすることによって効果はわかりませんが自信にはなっています。
1976年8月末にデビューして、踊って歌って好きなことをやらせていただいて、これは頑張ったなあと思うのは初めての武道館コンサートでした。 1977年の暮れでした。 一か月前から背中とかが痛くてスタジオの前で倒れてしまいました。 緊急手術で腹膜炎でした。 トイレに行く時間がないほどだったので痛くても病院に行く時間などありませんでした。 腹膜炎なので縫えないので傷が開いたままガーゼを詰めて毎日3回交換して、2週間の入院を要するところを8日間で退院して、翌日リハーサルしてガーゼのところにラップを巻いて、衣装を着てステージに立った時には、もうここで死んでもいいと思ったほどで一番幸せだったという経験でした。 絶対無理だと思っても人間やる気に成ったら何でもできるんだという事、それが人生の教訓と言うか、23歳までに経験した教訓でした。 その後は何が起ころうとへっちゃらでした。 いろんなことをプラスに考えられるようになったのも、あの4年7か月があったからだと思います。
私が3歳の時に父が交通事故で亡くなってしまって、6歳上の姉と3歳上の姉がいて、母が働かなければいけなくなって、母の姉夫婦に預けられて土日に母が迎えに来て家に帰っていました。 3年間続いて、小学校に上がる時に家に戻る事になるとおばさんが悲しいという事を聞いてしまって、いろいろ考えておばさんのところにいることに自分で決めました。(本来は小林ですが、増田恵子になりました。) 歌手になりたいという夢があり、中学、高校と本格的に歌の勉強を始めました。 母は歌手になる事には応援してくれましたが、叔母は芸能界に入ることは反対して、仲たがいするようなこともありました。 母が「寂しい思いをさせた分なんでもしたい」といってくれたことが凄く力になりました。
叔母は子供がいなくて2001年に亡くなりました。 母は10年前6月に93歳で亡くなりました。 1カ月に一回は母のところに行くようにはしていました。 或る時に夫婦喧嘩をして母のところに行き、話をしようとしても自分のことばっかり話をして、私は話す機会を逸してしまって諦めて、帰る段になって玄関で後ろ向きで靴を履いていたら、「恵子、あんなに優しくて素敵な旦那さんはいないから一生懸命尽くして可愛がってもらわないと駄目だよ。」とい言われた時には号泣してしまいました。(判っていたんだと思いました。) その1年後に亡くなってしまいました。
独りであろうと家族があろうと、結局独りなんだなと思います。 本当の意味での終わってゆくという事はやっぱりある意味孤独と言うか、やっぱり人間は母の力で生まれるが、でも独りで産まれて独りで天に召されてゆくんだなあと感じました。 自分で生きてきたことに自分なりの誇り、一生懸命生きて来たという誇りみたいなものがあったから、それを上手にたたんでしなやかに逝ったんだなという感じがしました。 辛いことも悲しいこともあったけど、それが全部自分の心の財産になっているなあと、50歳過ぎてから思うようになりました。 歌詞の理解力も変わって深く変わってきました。
若干体力、気力が弱くなってきたのかなあと感じて不安な面もありますが、それよりふくよかになった自分の感情とか、心の動きみたいなものが自分としてはどっしりあるので、若干体力、気力が弱くなっても(元気過ぎるところもあるので)、むしろ周りが安心して見ているのではないかと思います。
12種類ぐらい薔薇を育てていますが、特に白薔薇が好きで、私が育てられている様な感じです。 花であれ息をしているんで、愛情を沢山かけている分、返って来ます。 若い時には正直すぎて生きづらいところもありましたが、薔薇の茎のように嵐とかに逆らわないで、しなっていれば、柔らかさがあれば、茎はまたまっすぐになって凛として咲いてくれる。 私もこのように生きて行きたいと思いました。
わたし終いの極意としては、笑顔が輝く人生を、という感じですかね。 私が輝く笑顔でいれば、伝染してみんなが輝く人生になるだろうという風に思って、天に召されても皆さんの心に輝くように焼き付けてやれと思っています。 40周年と言っても気負いはなく、ファンの皆さんと一緒に時間を紡いでいきたいし、ファンの皆さんにも恵ちゃんと一緒にこれからも歩いていきたいと思ってもらえるような私でありたいと思っています。