宮本慎也(プロ野球解説者) ・【スポーツ明日への伝言】 意識を変えれぱすべてが変わる ~宮本慎也の野球論~
PL学園高校の時に全国優勝を体験、進学した同志社大学では神宮大会で優勝、プロ野球ヤクルトスワローズに入団してからは中心選手として3回の日本一に貢献するなど、輝かしい経歴を持っています。 個人としても守備の名手に贈られるゴールデングラブ賞を10回受賞、打者としては41歳5か月の最年長で2000本安打を達成しています。 宮本さんが野球を続ける中で大きな影響を受けたのが、プロ野球新人時代の監督だった野村克也さんだったと言います。 「意識が変わればすべてが変わる。」 野村監督の教え、宮本慎也さんご自身の野球への取り組み方などを伺います。
PL学園高校時代、寮生活だったので1年生の時には凄く厳しくて、2年生からは自分の練習もできますし、中村監督は甲子園へのことは言いませんでしたが、選手は甲子園へ出るだけではだめ、日本一目指していました。 2年生の時には春夏連覇をしましたが、3年生の力で優勝しています。 自分が3年生の時には甲子園には行けませんでした。
小学生の時にはピッチャーで、中学では3球投げて首でした。 内野手になり、PL学園では1年先輩に立浪選手がいました。 何をやってもうまかったです。 相手に対する気遣いの凄い選手でした。 近づきたい一心でよく真似をしました。 プロになって最初にあった時に「お前がプロに入って来るとは思わなかった」と言われてしまいました。
同志社大学ではいろんな野球があるんだなと経験させてもらいました。 プロ野球を目指すのが野球だと思っていましたが。 4年生の時にキャプテンをやってまして、勝てばもう一試合やれるところを僕がミスをしてしまって負けてしまって申し訳ない気持ちでした。 今でもその時のミスの感覚が残っています。
当時生きてゆく術みたいなものは野村監督のお陰で、教えていただきました。 1994年のドラフトでヤクルトスワローズに入りました。 ミーティングは興味がありましたが、最初に言われたのがプロ野球選手である前に、一社会人だという事を言われました。 考え方、取り組み方、人とは、と言ったところから始まります。 野村野球とは何だと言われると、プロセス野球だと思います。 準備ですね。 いい結果、悪い結果に対して反省をしてそして新たに準備するという。 プロセスの段階で説明できないと凄く叱られます。 最初の頃はこれをやったら監督が怒るのではないかと、監督と試合をしていました。 野村監督から離れてから、今監督はどうしたいんだろう、僕がどう動けばチームがいい方に行くんだろうとか、そういう風に考えられるようになりました。
身体の線が細くて(身長176cm、体重68kg)、入った時にこれではレギュラーは取れないと思いました。 監督が思ったように動ければゲームに出れるんじゃないかと思いました。 脇役の一流を目指そうと思いました。 自分でコントロールできる部分はプロセスだと思うんです。 技術的な努力、試合相手のデータ、自分がどう思われているか、と言ったことは自分でコントロールできる。 結果に対してはコントロールできない。 コントロールできることを100%に近い努力をしろと、言うところです。
バッターのカウントに対する心理的なことなどをミーティングでやるわけです。 臨機応変に、相手とこちらの力量、状況応じてどんどん変わるので、しっかり頭の中で考えて整理してやりなさいと言われます。 変えるという事は怖さがあります。 「今の若いものは・・・・・」と言う言い方はするなと野村さんは言っていました。 僕の場合はつい言っちゃうんですが、でも現代っ子の考えも必要です。
野村さんが亡くなられたのが2020年2月。 アテネ、北京オリンピックにキャプテンとしていきましたが、アテネは年齢層が近くて伝わりやすい方でしたが、北京では若い選手もある程度いてバランスが難しかった。 負けて凄くたたかれましたが、勉強にはなりました。 その時には臨機応変さは余り自分にはなくて、臨機応変さは身に付けないといけないと思いました。
アマチュアの選手はどうやって取り組んでいるのか、どういう風にしてどういう風な選手になりたいのか、そこをまず理解してあげないとアドバイスできない。 いかにコミュニケーションを取るか、上手くできるかが大事です。 技術論も変わってきているので、判り易く説明してできないかなあと思っています。 打てないからと言って落ち込んではいられない、打てなかったら練習すればいい、反省してどうやったらいいか、それの繰り返しだよ、ずーとうまくはいかないから、失敗した時にどうやって反省して立ち上がってゆくかの方が、人間としての強さが身に付くんじゃないの、と言った話もします。