鈴木慶一(音楽家) ・老いは"個性"、生涯バンド宣言
70歳、北野武監督の映画「座頭市」の音楽を手掛けたことでも知られていますが、今年結成46年目を迎える6人組のロックバンド「ムーンライダーズ」のボーカルとリーダーなどを務めています。 鈴木さんは大田区で9人の大家族で生まれ育ちました。 俳優の父、映画や音楽が大好きな母や親せきの影響で幼いころからラジオから流れてくる欧米の音楽に親しみました。 1975年に「ムーンライダーズ」を結成、長期の活動の停止や、仲間の死を乗り越今年11年振りの新しいアルバムを発表しました。 バンドメンバーの平均年齢は70歳です。
1995年と言うと阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件、全日空の857便のハイジャック事件がありました。 メンバーの武川雅寛が乗っていて、無事帰って来ました。 人間愚かですから同じことを繰り返すんです。 日々生きているんで世の中の動きには影響されます。
音楽に興味を持ったのは家庭環境があります。 ラジオが箪笥の上に有り、そこから音楽が降ってくるわけです。 ウクレレ、ギターもありました。 部屋を貸して、ピアノ教室もやっていました。 ベンチャーズのパイプラインと言う曲を聞いた時にギターを手にして音楽をコピーすることから始まります。 ずーっとラジオを聞いていました。 レコードを買うお金もなかった。 レコードを最初に買ったのはベンチャーズのパイプラインでした。 1965年に母親からエレキギターを買ってもらいました。ラジオからかかって来る音楽はフォークソングになってしまって、生ギター(アコースティックギター)を買って欲しいと言ったら買ってくれました。 毎日ギターを弾いていました。 中学3年生の時にビートルズが来日して、高校になると自分で作曲をするようになります。 高校卒業するころにヒット曲を出しました。 テープレコーダーを借りたりして録音もやっていました。 音楽の話はしたことはなかったが、あがた 森魚さんと会った最初の日ずーっと二人で音楽の話をしました。 二人で聞いたり聞かしたり音楽の話をしました。 ロック喫茶があって店に通い新しい音楽を聴く日々となりました。 ロック喫茶がライブをやる様になり、あがたさんらと小さなホールを借りてそこに出るようになりました。(1970年)
1971年にロックバンド「はちみつぱい」を結成、74年に解散して 75年に「ムーンライダーズ」になります。 『火の玉ボーイ』でアルバムデビュー。 アグネス・チャンのバックバンドを行うこと(週末に対応)により、バンドの経済的基盤を確立させました。 その後22枚のアルバムを出しました。 2回バンド休止をしました。 2回目が2011年から2021年まででした。 2020年にコロナが流行って家にいるし、そろそろやらないかと言う話が出ました。 即興で弾いているうちに段々メロディーが出来てきて、録音するとか、データを作る。 夢で出てきたのを飛び起きてデータを作ったりもします。
映画音楽では、北野武監督の映画「座頭市」、「アウトレイジ最終章」など。 「座頭市」でのタップダンス、リズムを作ってそれに私が足していった。 数年前に中国の映画音楽を二つやりました。 中国の音楽と日本の音楽を混ぜたりしました。 音楽は言葉にできないので、まず作って聞いてもらっていいのかどうか、監督によって注文が入るものもあります。 映像はまず見ます、それから作曲に入ります。 映画音楽をやるようになってからは抽象的な音楽の鳴る映画が好きです。 映画「メッセージ」の音楽は非常に抽象的です。 「座頭市」はいろんな要素を盛り込む必要があったけれど、「アウトレイジ最終章」はクールな無機的な音で行けたので、非常に楽しめました。
「ムーンライダーズ」は大切な場所です。 なんでこんなに長くやっていたのかと言うと、みんなが大切だと思ったからじゃないですか。 特にリーダーと言うのはいないです。 2013年12月17日、メンバーのかしぶち哲郎さんが亡くなってしまいましたが、非常に悲しい出来事でした。 バンドにおいて経験は忘れちゃってもいい、忘れるから若いメンバーに助けてもらう。 忘れることは次に何かを作ろうとする。 吐き出して新しい音楽を聴いたり、映画を見たりすることによって新しい情報を入れて行って、それから作り出す。 困った時だけ経験をなでさするようにする。 これからやりたいことは11年休んでいたので「ムーンライダーズ」を死ぬまで行きましょう、という事です。