田中啓(ボランティア団体会長) ・感動を分かち合う〝おもちゃドクター"
田中さんは長年勤めた中学校を退職後、おもちゃドクターの活動に出会いました。 日夜修理の技を磨く中、今月おもちゃドクターが所属するボランティア団体の会長に就任しました。田中さんに新会長としての意気込みや活動の魅力などを伺いました。
会員そしておもちゃを預けるかたの役に立てる会の活動をしてこうと思っています。 1600人強の会員がいます。 おもちゃ病院が640ぐらいあります。 土日が多いですが、平日をわざと選んでやっているところもあります。 時間も午前、午後とか時間帯もバラバラです。 1996年に「おもちゃ病院連絡協議会」が出来ました。 それが今の協会の前身です。 松尾さんが都内で活動されていた方ですが、おもちゃ美術館が中野にあって、そのなかでおもちゃ病院をやっていました。 そこの館長さんと意気投合して、館長さんは全国につながりがある人で、全国に活動を広げようという事で始まりました。 最初は40~50名程度で始めたようです。 主に60代以上の方で最近若い人もぽつぽつ入ってきました。
部品代ぐらいは頂いていますが、ボランティアでやっています。 道具はそれぞれ購入しています。 道具もいろいろやり易いように工夫しています。 依頼は電池を使ったものが多いです。 子どもは意外と手で動かすものが好きです。 ですから手でも動くし電動でも動くものがあったりします。 世界で初めてラジコンを取り入れたのが日本のメーカーです。(1955年発売) 私がドクターになり始めた頃に、おばあちゃんが話せるぬいぐるみを持ってきました。 直して返す時に、「お孫さんのものですか」と聞いたら、「私のものです」と言われて、娘さんが自分のことを心配して買ってくれたんだと言っていました。 吃驚しましたが、その後そういうケースが非常に多いです。 年を取った人がコミュニケーションの相手として持つということです。 棺桶に一緒に持ってゆくと言っていました。
ものとしては全然珍しくないんですが、人形で光が当たるとゆらゆらと左右に揺れるおもちゃがありました。 持ち込まれたのはフラダンスの人形ですが、「いくらかかってもいいから修理をお願いします」、という事でした。 自分の娘が結婚する時に、相手の方がハワイで、結婚式をハワイで行ったそうです。 その人はそのころ鬱状態だったようで、相手のおかあさんにその状況を話したら、「こんなものが慰めになるかどうかわからないが、これを見て思い出して下さい」と言われてくれたのが、その人形でした。 元気になってハワイから帰って来ました、という事でした。 気合いの入る修理になりました。
おもちゃに物語性があるという事は、修理をしていてつくづく感じます。 大量生産されたおもちゃでも、物語性が加わると唯一無二のものになるんですね。
手のひらに乗るような犬のぬいぐるみが歩いたり尻尾を振ったりするものですが、直して返したんですが、ちょっと涙ぐんでいて、自分が昔犬を飼っていてすごくかわいがっていたが、犬が亡くなった時に凄い喪失感で、似たぬいぐるみを買って大事にしてきたが、それが動かなくなって持ってきたという事でした。 感動の共有みたいなものがあります。 直って渡す時のお客さんの反応は、凄く喜んでくれて、それが伝わってきてこっちも嬉しくなって、そういったことがしょっちゅうあるんです。
定年前退職(56歳)して、何をやろうかいろいろやりましたが、偶然におもちゃドクター養成講座に参加しました。 その後活動ができる病院を捜しました。 前会長の三浦さんの四谷おもちゃ病院に通いました。 最初に手がけたおもちゃのことは良く覚えています。 お母さんと一緒に来た女の子で、音の出なくなってしまったピアノのおもちゃでした。 分解しましたが、原因が特定できませんでした。 直せずに返した時に女の子の悲しそうな表情を見て、残念な思いをしました。 その後も別の子が同じ症状のおもちゃのピアノを持ってきましたが、やはり直せず悲しい顔をされてしまいました。 苦い体験でした、いまでは直せると思いますが。
三浦さんは直すための部品がなければ作るという発想でした。 工夫をして作るという姿勢を学びました。 それぞれ得意分野がありますが、チームプレイで対応することもあり直った時の感動を共有することが出来ます。 現役のころは暇になったらいいだろうなあと思いましたが、暇でいるより好きなことで役に立てることで忙しいという事がベストなんだと思います。