宮城幸子(琉球舞踊立方) ・芸の心を次世代に
宮城さんは人間国宝として88歳になった今も舞台に立ち続け、沖縄本土復帰50周年の記念レセプションでも舞踊を披露しました。 先月東京の国立劇場で行われた「沖縄芸能フェスティバル2022」の際に話を伺いました。
人間国宝という事で吃驚し戸惑いました。 振り返ってみると師匠の故真境名佳子先生のお陰で今があると思います。 女性で初めての人間国宝という事ですが、先達が継いできた技を家元、先生たちが一生懸命やってくださったのが、私たちの世代に伝えられて、その技が又次の世代に伝えられてゆくという事が私の使命だと思っています。 踊りだけではなくて立ち居振る舞いも大切だと言われてきました。
1933年山原出身で、当時あちこちで村芝居が催されて、見に行っていました。 中学の卒業式に「松竹梅」をみんなで踊るようになって、5名の中に選ばれ、それがきっかけで踊りを踊るようになりました。 戦後那覇から山原に避難してきた人の中に踊りをやっている方が居まして、踊りが好きならば山原ではなく那覇に来た方がいいと言われて、那覇にきまして真境名佳子先生を紹介され、それがきっかけで現在に至っています。
18歳で入門して、真境名佳子先生は厳しい先生でした。 歩みと姿勢は大事で、身体で体得しなさいと言われて、鏡とにらめっこしてぐるぐる歩みをさせられました。 歩みに始まって歩みに終わると言う事はよく聞かされました。 あと姿勢と歌詞の内容が判らないといけない。 厳しくてやめたいという事もありましたが、結局先生のもとで頑張ろうと思いました。 21歳で初舞台(昭和29年)、「浜千鳥」を踊る事になり、緊張しました。 沖縄戦で小道具、かんざしもない時代で、家元のものを借りて踊りました。 「綛掛(かしかき)」を踊るようになって、その小道具を作るようになって、糸を巻くのも飛行機の中で巻いて、東京で「綛掛(かしかき)」を踊ったら凄くよかったと言われました。 白地や黄地の紅型を片袖抜きにし綛と綛掛の糸巻きの小道具を持ちながら恋する乙女を描いています。 歌詞の内容と三線の音色、など厳しく言われました。
30歳の頃にグランプリをいただきました。 突然歌詞をいう様に言われたり、予期しない審査があり、厳しい審査でした。 父は戦争で満洲にいって、その後満洲にいるというような噂がありましたが、家元の妹が熊本にいて、東京公演の帰りに熊本に行った時に偶然父に会う事が出来ました。 父は大工でしたが、器用なので靴を作るようになっていました。 大工ではなく、靴を作っているという事で父ではないと思っていましたが、実は父でした。 戦後10年経った頃の出来事でした。
「身体で体得しなさいよ」と言う先生の言葉は忘れられないですね。 これを次世代に残すためには、これからの若い人たちに伝えて、いいものを残してゆくように頑張りたいと思います。 先生のように厳しくないと残らないと思います。 礼に厳しく、歩みに始まり歩みに終わるという事と、姿勢作りですね。 歌詞の意味も理解しないといけないですね。
沖縄の文化、琉球舞踊、そのほかにもいろいろあると思いますが、永遠に残り多くの人から喜んでもらえるという事を願っています。 世界のどこへ持って行っても通用するという印象を持ちましたので、沖縄の歌三線の音色に合わせて踊る、これで人を感動させる、これは大事ではないかと思います。