川平朝清(元・アナウンサー) ・戦後の沖縄を見続けて
戦後初の沖縄のアナウンサー、1927年(昭和2年)台湾で生まれ、1946年沖縄に引き上げてきます。 通訳などを経て1949年に設立されたラジオ局琉球の声放送の初代アナウンサーに就任しました。 1967年にNHK沖縄の前身となる沖縄放送協会を設立し、初代会長に就任します。 1972年沖縄の本土復帰に伴い、東京のNHKに移って国際協力などに尽力しました。 パーソナリティーのジョン川平さん、俳優の川平ジェイさんは息子さんです。
5月15日本土復帰50年を迎える。 ①復帰したことによって沖縄が格段に良くなった。(感謝) ②アメリカ軍の基地が返還したのにも関わらずいまだに多くあり期待外れだった。(幻滅) ③施政権は返還されたが、人権と主権が返還されてなかった。(怒り)
屋良 朝苗(やら ちょうびょう)さんが復帰後県知事になりますが、式典で「今日は喜ばしいけれども、内実は沖縄の人々にとって期待外れであったことは認めざるを得ない」と言っていますが、全く同感と言う気持ちです。 恐れていることはウクライナの状況、中国の軍事力の増強があり、対抗策として軍事力を高めていこうという雰囲気が大きな危惧を持っています。 平和を維持するために沖縄を軍事的に利用し拡張しようとする意向については非常に大きな危惧を持っています。 沖縄に力を注いだのは経済面ではなくて軍事面だったんですね。 日本にあるアメリカ軍基地は沖縄にある基地よりもずーっと多かったんですが、復帰して政府が行ったことはアメリカ軍基地を沖縄にどんどん移してゆくという事をやったんですね。 沖縄は大陸に対して非常に重要な地点だと言いますが、ここには100万の人たちが住んでいるという事をもっと真剣に考えてもらいたい。 「平和の礎」にはこれ以上名前を加えるようなことは絶対にしてもらいたくない。
施政権は返還されたが、人権と主権が返還されてなかった、という事に関しては段々減らしてゆけるものと思ったが、普天間を移転するのには辺野古しかない、というようなかたくなな思いがありますが、アメリカの国防長官が来てこんな危険な状態をいつまで置いておくんだという程、未だに続けている。(20年も) 沖縄の基地を東京に持ってくると23区の約半分になります。 嘉手納基地は品川区に匹敵します。
戦後沖縄に引き上げてきて、長兄が沖縄の住民側の政府の文化部の芸術課長に任命されました。 上司に進言したことは情報伝達、娯楽を皆さんに提供し、教育、教養面でも一番いいメディアはラジオだということで、ラジオ放送局を作りましょうという事でしたが、政府の上層部は家も満足ではなく電気も望むべくもない状態で、そんなことを言ったらアメリカに笑われるぞと言われたが、ひるまずにアメリカ当局に出したら、沖縄人にもラジオ局を運営できるような人がいるのかと、むしろアメリカ軍政府当局が驚いたんです。 民家を改築したうえでスタジオを作り、別の民家には送信機や発電機を置いてラジオ局を作ってくれました。(1949年) ほとんど受信機がなかったので、「親子ラジオ」をアメリカ軍は日本のメーカーから取り寄せました。 親のところには発電機、受信機、増幅器をおいて、有線で1セットで300個のスピーカーを各家庭に配りました。 これを85セット導入して、2万5500人の聴取者が出来るわけです。 以前は那覇が中心で2500人ぐらいしか聴取者はいなかったが、一挙に増えました。 ほとんどはNHKからの中継でした。
最初2時間だったが、増えて行って学校放送も行うようになり、先生方にも喜ばれました。 私はアナウンサーの教育の要員としてアメリカ軍の那覇の空軍基地から飛んで、世田谷の砧にある技術研究所に行きまして、同期では鈴木健二アナウンサーなどがいました。 研修期間は2月から4月まででした。 私はしょっちゅうアクセントで直されていました。 沖縄方言の番組では親しみを持たれるようになってきて、ローカル性と言うものが、沖縄でも堂々と電波に乗るようになって、私は本当に喜ばしいことだと思っています。 沖縄の民謡は次から次と新譜が出るんです。 沖縄のラジオ、放送は非常にカラフルで、バラエティーに富んで非常に力があると思っています。 「うちなーんちゅ」とは沖縄生まれ(地元が沖縄)の人の事ことを指す言葉ですが、沖縄の人がアイデンティティーとして「うちなーんちゅ」として対外的にも発言するようになって、一つのシンボルとして使われるようになってきました。
現在30万~40万の人が世界に沖縄系の人がいると言われていますが、「うちなーんちゅ」大会が開かれるようになったという事では、沖縄の自意識、アイデンティティーを強める意識では非常に大きいと思います。 海外の「うちなーんちゅ」は本当に元気です。 沖縄の若者はスポーツ面、芸能面であれ非常に元気です。
芸術的に素晴らしいものを明治政府は古きもの、中国めいたものは存続しないような面がありました。 教育でも標準語を使いましょうとスローガンを作ったりして、琉球の文化、芸能を卑下するような傾向を作り続けた。 民芸的なもの、工芸的なものの価値を見出だしたのは、柳宗悦さんを中心とした日本民芸協会の人たちなんです。 首里城のメンテンナンス、維持管理緒も首里市役所に任されて、朽ち果ててゆき打ち壊すという話も持ち上がり、鎌倉芳太郎さんが美術の先生としてきていて、伊東忠太氏に進言して、調査を行い国宝に値するということで、その時に作られた図面は首里城再興のために非常に参考になったという事です。 ジョージ・H・カー先生は台湾史、琉球史の研究家で琉球史を英文で紹介するという事で琉球王国の文献がどの程度あるかイギリス、フランス、ロシアなどで調査をするが、琉球王国の方が徳川幕府よりも西洋にはずーっと知られていたんだという事を私に教えてくれました。 沖縄の人たちにもっと自信を持ってもらいたいと思います。 沖縄を重要な軍事地点とするよりも、世界的な文化地点として東南アジアにおける一つの文化的拠点にするべきだと思っています。