頭木弘樹(文学紹介者) ・【絶望名言】 夏目漱石
以前正岡子規を放送した時に、友人としての漱石に触れましたが、今日は夏目漱石自身の絶望名言を取り上げます。
参照:https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/09/blog-post_23.html
「呑気と見える人々も心の底を叩いてみると、どこか悲しい音がする。」 夏目漱石
代表作は『吾輩は猫である』『坊つちやん』『三四郎』『それから』『こゝろ』『明暗』などがある。 生まれたのが1867年(慶応3年)で明治元年の前の年。 亡くなったのが大正5年(49歳)。 小説家としての活動は10年間ぐらい。 もともとは学校の英語の先生で、当時の中学、高校、そして東大の講師になる。 小説家としてデビューするのが37歳。 デビュー作が『吾輩は猫である』。 僕( 頭木)は一時期目が見えなくてインターネットで老年の女性の『吾輩は猫である』の朗読を聞いたことがありますが、22時間でした。 漱石は『吾輩は猫である』だったら、もっといくらでも書けるという事でした。 漱石の妻の証言では、『吾輩は猫である』を書いている時にはすごく楽しそうだったと言っています。
「呑気と見える人々も心の底を叩いてみると、どこか悲しい音がする。」 この言葉も『吾輩は猫である』の中にあります。 (猫がつぶやく言葉です。)
漱石は小さいころは親の愛情に恵まれなかったという事はあるようです。 8人兄弟の末っ子で、父親は51歳、母親が42歳の時の子供です。 あまり大切にはされなくて生後間もなく里子に出される。 その後養子に出されるが、養子先の夫婦がもめて離婚になって、9歳の時に夏目家に戻る。 実父母はおじいさん、おばあさんと教えられていて、父親母親だとは知らなかった。 教えてくれたのが家政婦でそっと教えてくれた。 21歳までは夏目ではなく、塩原という養子先の苗字だった。 僕( 頭木)も末っ子で養子の話があり、寂しかった記憶があります。
「思いがけぬ心は心の底よりいでくる。 容赦なくかつ乱暴にいでくる。」 夏目漱石
「人生」と言う題名の随筆の一節。 思いがけない心は他人の心からも、自分の心からも出てくる。 他人は油断ならないし、自分も油断ならない。 漱石が47歳の時に書いた『こゝろ』という小説がありますが、おじさんからお金のことで裏切られて凄く傷つきます。 ところが自分自身も恋愛のことで友達を裏切ってしまう。 「自分もあの叔父と同じ人間だと意識した時、私は急にふらふらしました。 人に愛想をつかした私は、自分にも愛想をつかして、動けなくなったのです。」と書いてある。 僕( 頭木)は中学生の時にひき逃げをされて、相手が逃げるのはわかるが、自分の方も逃げたんです。 何故か轢かれたたことを隠そうとした。 未だにそれが判らない。 自分には怪我はなかったが、自転車がぐにゃぐにゃになり判ってしまった。
「ちょうどその晩は少し曇って、から風がお堀の向こうから吹き付ける非常に寒い。 神楽坂の方から汽車がヒューっと鳴って土手下を通り過ぎる。 大変寂しい感じがする。 暮れ、戦死、老衰、無常迅速などどいうやつが、頭のなかをぐるぐる駆け巡る。 よく人が首をくくると言うが、こんな時にふと誘われて死ぬ気になるんじゃないかと思い出す。 ちょいと首を上げて土手の上を見ると、いつの間にか例の松の真下に来ているのさ。」 夏目漱石
この言葉も『吾輩は猫である』の中にあるセリフです。 例の松と言うのは「首掛けの松」と言われている。 「なぜこういう名前が付いたかと言うと、昔からの言い伝えで誰でもこの松の下へ来ると、首がくくりたくなる。 土手の上に松は何十本とあるが、そら、首くくりだと来てみると必ずこの松にぶら下がっている。 年に2,3度はきっとぶら下がっている。」
はっきりした理由もなくふらふらっと死のうとしてしまう事はあるんじゃないかと思います。 僕もちょっとそんな感じになったころがあります。 腸閉塞に何度もなっていて、なりそうなときには何も食べず飲まずひたすら歩くんです。 そうするとつまりが解消される時があります。或る夜、何時間も歩き回って、限界に達するときがある。 病気は投げ出しようがない。 いつもなら車など確認するが、その時には確認もせずにふっと渡ってしまう。 もし車が来て居たら大変な事になる。 なんか投げやりになっている。 後から怖くなったが、交通事故で中にはこういった人もいるのではないかと思います。(自殺にはカウントされないが)
「山道を登りながらこう考えた。 地に働き場角が立つ、情にさをさせば流される、意地を通せば窮屈になる。 とかくに人の世は住みにくい。」 『草枕』の一節。
グレン・グールドは『草枕』が20世紀最高の小説とまで言っていて、亡くなった時には聖書と沢山書き込みのしてある『草枕』が枕元に置いてあった。
「私は死なないのが当たり前だと思いながら暮らしている場合が多い。 或る人が私に告げて、人の死ぬのは当たり前のように見えますが、自分が死ぬという事だけはとても考えられません、と言ったことがある。 戦争に出た経験のある男にそんなに遺体の続々倒れるものを見ていながら、自分だけは死なないと思っていられますか、と聞いたら、その人は、いられますね、大方死ぬまでは死なないと思っているんでしょう、と答える。 私もおおよそこういう人の気分で比較的平気にしていられるのだ。」 夏目漱石 「ガラス戸のうち」と言う随筆の一節。
漱石は胃が悪くて43歳の時に修善寺に療養に行っていたが大量に血を吐いて、一時危篤状態になった。 ここから作風が変わったと言われる。 「死ぬのはいつも他人ばかり。」目にするのはいつも他人の死ばかり、自分が死ぬ時には自分では見られない。 漱石は自分の娘を亡くしている。(44歳の時) 1歳9か月の幼い子供だった。 夕食の時に突然亡くなってし待って、原因不明だった。 非常にショックを受けた。 その時の日記に「表を歩いて小さい子供を見ると、この子が健全で遊んでいるのに、我が子は何故生きていられないのかという不信が起こる。 自分の胃にはひびが入った。 自分の精神にもひびが入ったような気がする。」と書いています。 詳しくは小説「彼岸過ぎまで」に書かれている。
「すみれほどな小さき人に生まれたし。」 夏目漱石 俳句
若いころに正岡子規と出会って、仲良くなって俳句を作るようになる。 この句は30歳の時のもの。(熊本で先生をしていた時) 『草枕』の「とかくに人の世は住みにくい。」と言うところから、人の世を離れて美しく生きたい、と言うようなこと。 30歳にして「小さき人」と言うのがポイントだと思います。
住みにくさ、お金の問題、実家の夏目家も没落してゆく、妻の実家の方も没落してゆく。 お金に関わる人間関係。 修善寺の大患の後、妻に手紙を書いている。 「世の中は煩わしい事ばかりである。 一寸首を出してもすぐに首を縮めたくなる。 俺は金がないから病気が治りさえすれば、いやでも応でも煩わしいなかに来させて神経を痛めたり,胃を痛めたりしなければならない。」
当時漱石は大変なエリートだったが、私たちと同じような事を思っている。
「もう泣いてもいいんだよ。」 漱石の弟子の森田宗平が本に書いている、漱石が亡くなる前の言葉。
「亡くなられる9日の朝、お子さんを寝間へ連れて行ったとき、先生は末の男の子二人の顔を見て、何も言わずにすっと笑われたそうです。 それから12歳になる末の女の子を連れて行った時に女の子だけにやつれた先生の顔を見るや否や、声を上げてワーワー泣きました。 そばにいた奥さんは泣くんじゃない、泣くんじゃない、と言ってたしなめられたそうです。 それが先生の耳に通じたのか、先生は弱い声音で「もう泣いてもいいんだよ。」と言われたそうである。 これはいかにも先生らしい言葉ではないか、先生らしいというほかに何とも形容することができない。 誠、先生らしい悲しい言葉である。」
漱石は大好物の南京豆を胃のためを思ってずーっと我慢していたと思うが、この結婚の席の南京豆は我慢できなかったと思われる。 翌日に様態が悪くなる。
「私は暗い人生の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけてあげます。 しかし、恐れてはいけません。 暗いものをじっと見つめて、その中から貴方の参考になるものをお掴みなさい。」 夏目漱石 『こゝろ』の先生と遺書という、先生の告白の手紙に出てくる。