田中泯(ダンサー・俳優) ・【私の人生手帖(てちょう)】
映画「たそがれ清兵衛」や今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の奥州藤原秀衡役など、多くの人は俳優としての姿をご覧になっているのではないでしょうか。 田中泯さんは1945年東京生まれです。 1966年からソロダンスの活動をはじめ、1974年からは独自のスタイルの踊りを展開して1978年にパリデビューしました。 以来、世界的なダンサーとして活躍を続けています。 一方、1985年40歳の時に山梨県に移り住んで、農業を始めました。 田中泯さんが考える踊りとはどの様なものなのでしょうか。 ひたすら踊りを追求してきた人生の話を伺いました。
農業は一生続けたいと思っている仕事です。 夏になると畑ではナス、ピーマン、トマト、キュウリとかいろんなものが食べられるようになります。 すぐジャガイモ、ネギなども収穫しなくてはいけなくて、ほかにもいろいろあります。 物凄く疲れます。 基本的な自分の姿勢を変えながらやって行くとかしてます。 手作業が主です。 運動の質を考えながらしょっちゅうやっています。 膝が硬くなると伸ばしたまま草取りをするとか、どこか関節が硬くなると、別なところでほぐす運動をします。 農作業で身体の調子が判ります。
俳優としてのスタートは山田洋二監督の映画「たそがれ清兵衛」の 余吾善右衛門 役。(57歳の時) 人前で話すことが苦手なほうだったので凄く吃驚しました。 役を与えられたその人の身体になりたいとまず思いました。 自分の口から出してゆくセリフが本当に自分の身体からでてゆくという感覚が自分で持てないセリフのしゃべり方はしないでおこうと思いました。 その人の身体になってやるぞ、と言う気持ちが強いです。
動きと言うのはその人の心の発露じたいが踊りになっていたんじゃないかなあと思います。 言葉で表せないこと、言葉の方が早かったり、身体では追い付かないようなスピード感、言葉がどのくらい私たちの身体の中に入り込んできているのかとか、そのような事を一杯考えました。
子供のころは一人で遊んでいる記憶の方が多いです。 自然が豊かだったのでいくらでも遊んでいられました。 犬、猫、野鳥、兎、ヤギなどを飼ったりしていました。 未熟児で生まれて牛乳を毎日のように飲まされました。 高校から急に大きく成りました。 虚弱だったので中学の時に、母親から「バスケットボールをやりなさい」と言われました。 高校でもバスケットボールをやっていましたが、駄目でした。 テレビで外国から来る舞踊団を観たりして、これが踊りなんだと思いました。 バレエの勉強をしたいと思いました。 身体だけと言うのが気に入り、しゃべるのが苦手でこれなら自分にも出来ると思いました。 踊りの勉強を一生懸命やりました。 もっと身体そのものになって行くという事を考えて、たどり着いたのが裸体でした。 踊りを捜しに行きました、今でもそうですが。 服がどういう植物繊維で出来上がっていて、どういう形をしているか、によって踊りは変わってゆくんです。 風が強かったり、太陽の光加減など、本当は踊りは外で踊るべきものだと思います。 踊り手がいる場所が舞台だと思います。(既存の設えられた場所だけでなく、日常的な場所、または野外などの、ありとあらゆる場所)
言葉ではないものを沢山発散して、身体の外に飛び出すようにして生きているわけですよね。 それは気配と呼ばれたり、たたずまい と言われたり、いろんな言葉が日本にはあります。 どうしたらそれがキャッチできるのか、不思議です。 踊りたいという事は無限にあります。 旅をしていて、急に踊りたいと思う時もあります。 自分の好きな事ばっかりやって、自分はスーパーラッキーだと思います。 僕はあこがれの強い人間です。 何時かこの人の前で踊りたいとか、と思います。 本に凄く影響を受けていて、ロジェ・カイヨワさん梅原猛さんなど。 押しかけて踊りを見ていただきました。 自分の中に子供時代の子供が棲んでいて、その子供に恥ずかしいことはしたくない、その子供を裏切りたくない。 踊りは人間が考え出してくれた言葉と一緒になって育ってゆくとっても大切な表現、誰にでもできる凄く大切なものだと思います。 言葉をより豊かにするための表現かもしれない。
今、夢中です、死ぬ瞬間まで夢中で生きて行きたいですね。 踊りに救ってもらっているようなところがあります。 才能があって踊りをやっているのではなくて、踊りに縋り付いて生きてきた、と言ってもいいんじゃないかと思います。 どうして夢中になれたのかは判らないです。