伊藤浩子(編み物作家) ・【わたし終いの極意】 幸せを編み込んで
4歳で編み物を始めた伊藤さんは、戦後ヨーロッパの本格的な編み物を学び、89歳の今も指導者として活動しています。 絵画のように美しいその手編み作品は高い評価を受け、去年11月フード付きマントなど2つの作品がイギリスの国立博物館に収納され永久保存されることになりました。
今着ているのは半袖のセーターでシルクです。 色はワインレッド。 シルクは編みにくいが編んでしまうと1年中着られます。 面を捩じり編みと言って手が大変かかります。
1932年神戸市生まれ、東京に移って手編みに出会ったのが4歳です。 6人兄弟の3番目で、妹が生まれる時に母から教えてもらいました。 初めて作ったのが15cm幅の10cm縦のお人形に掛ける毛布でした。 戦争が始まってからは毛糸が手に入らないので、頂いたものをほどいたりして編んでいましたが、灯火管制でなかなか出来なくなりました。 群馬県の渋川に疎開しました。 疎開先では真綿を利用して編んだりしていました。 終戦後、東京に戻るとしばらくしてから毛糸が出回るようになりました。
ルーマニア出身の渡辺イルゼ先生は昭和22年に貨物船に乗ってきたそうで、昭和23年に編み物の本を出しました。 本を見た時には色彩、形などに魅入られました。(高校2年生) 母が弟子にしてほしいと頼んだらしいです。 御茶ノ水の病院の一室に暮らしていました。 そこで初めてお会いした日のことは、今も鮮明に覚えています。 私が通っていた都立駒場高校は自主自立の校風で、必要な単位さえ取ればあとは自由。午後は一目散にイルゼ先生のもとに馳せ参じました。 日本語が覚束ない先生に代わって記者の取材に対応したり、スケジュール調整したり。私は高校生ながら私設秘書、スポークスマン気取りでした。 東京大学文学部で美学の教授だったご主人(渡辺護氏)からは色彩学の基本を教わりました。
先生から「全国編み物コンクールに応募してみたら」と勧められました。 その時点で締め切りまで10日しかなかった。 黒、白、グレーの3色で、フレンチスリーブのセーターを編み上げました。 地区予選の東京大会で最終10作品に残りました。 「最優秀賞・高松宮妃賞」を最年少の19歳で受賞することになってびっくりしました。
23歳の時に兄の学生時代の友人と結婚しました。 旧家だったので編み物はできないと思っていましたが、義姉(伊藤実子さん)が編み物が大好きな人で。私の高松宮妃賞受賞も知っていて、教えて欲しいと頼まれました。 教室を開くことになりました。 1965年に初めての展覧会をしました。 それから50年、2年に一度展覧会をしてきました。 生徒も1点ずつ展示します。 生徒は一時期100人を超えていましたが、今はコロナ禍で人数が減ったとはいえ、40代から90代まで40人ぐらいです。
私の夫は10年前に、84歳で突然亡くなってしまいました。 前夜まで元気で、二人でカステラを食べたりしていたのに、翌朝、目覚めなかったのです。 ベッドに持たれて意識がなくて救急車を呼んだんですが、10時間ぐらい生きていましたが、何も言わずに亡くなってしまいました。 脳溢血でした。 編み物に熱中すると世の中のことを忘れさせることが出来ます。 美しいものを作る事は嬉しいです。 設計図は方眼紙に3mm方眼で書きます。 絵を書いて編み図に直してゆき色を付けていきます。 一番大変なのは図案が出来上がるまでです。 後は根気です。
イギリスのヴィクトリア&アルバート博物館への収蔵が決まりまり、去年11月フード付きマントなど2つの作品が収蔵されました。 一つが竹林、ジャケットとロングスカートのアンサンブルで、竹の葉っぱが美しく織り込まれている。 京都の染物屋さんに、緑でもいろいろな色を特注で染めてもらいました。 もう一点がフード付きマントで、「紅葉の舞」と言うタイトルで、紅葉の葉っぱが色とりどりに織り込まれている。 実際竹林とか紅葉の現地に行きます。 収蔵されるきっかけになったのは、作品集がロンドンに住むイルゼ先生の息子(ロンドンの芸術大学の教授)さんのもとに届き、それをご覧になった彼が博物館に推薦してくださいました。 1995年にイルゼ先生はイギリスに戻る事になり、翌年にご主人から連絡があり脳腫瘍で助からないとの電話がありました。 徹夜して一生懸命泣きながら千羽鶴を折って届けました。 73歳でした。
主人のように一瞬にして亡くなりたいと思っています。 手間も時間もかかるけれど、手編みにしか出せない温かな風合いがあります。 毎年、私や生徒さんの作品を集めたチャリティバザーを開催しています。 今年は11月15日から1週間行います。