2022年6月14日火曜日

湯川れい子(音楽評論家・作詞家)    ・夢を追い続けて 1

 湯川れい子(音楽評論家・作詞家)    ・夢を追い続けて 1

1936年(昭和11年)生まれ、戦後音楽評論家として新しい世界を開拓してきました。   86歳の今も現役の音楽評論家として、精力的に仕事をしています。 

1月26日に86歳になりました。  前日に発熱して、PCR検査になかなか予約が繋がらないんです。   オミクロンという事で1か月半ぐらい入院しました。  公共機関を使ってはいけないという事で、苦労しました。   元夫も独りで暮らしていましたが、コロナにかかって心臓にペースメーカーが入ってたりして4月14日に亡くなりました。    離婚して30年ぐらいになりますが、ここ15年ぐらいは仲のいい友達として付き合ってきましたが、地上からホッといなくなり本当に寂しい思いをしました。    みんなそれぞれ人生って大変だと思います。   

「時代のカナリア」と言う本を出版しました。  アーティストはいろんなものに敏感に反応して自分の創作活動したり、表現したりするが、周囲のものに敏感な人間は、炭鉱のカナリアのように、アーティストは炭鉱のカナリアだと、悪いエネルギーを持ってるものには敏感に反応する、自分も活動してきて「時代のカナリア」なのかなと思いました。  さえずっていられる間はさえずりたいと思います。   


終戦を迎えたのは小学校2年生で、戦後の厳しい世間を体験したのは非常に貴重だったと思います。   父は海軍大佐で中国の駐在武官などを長い間していて、ハイカラな人でした。   昭和19年に戦局が厳しい中、急性の肺炎で亡くなりました。   長兄は18歳で召集されてフィリピンで戦死しました。   自分が命を懸けて踏ん張ることで、1日でも2日でも、日本に残してきている私とか母が攻撃を受けないで済むのなら、と思ったのかもしれません。   ほとんど何も食べるものがないなかで、1か月近く頑張っているんですね。  戦死した場所に行って、地元の人たちとの交流が生まれました。

身体が弱くて寝ている時に母がラジオを枕元に持ってきて、音楽を聴いても何もいい音楽がなくて、ダイヤルを回したらいいにおいのする音楽が聞こえてきて、それが米軍放送でした。   父や兄のことを考えると母の前では聴けないのでそっと布団の中で聴きました。メロディーに合わせて自分が歌っていて、何で知っているのと思ったら、「僕が作った曲だよ」と言った兄の口笛の曲でした。(戦地に向かう直前に口笛を吹いていた曲だった。) 後で判ったが、真珠湾攻撃の年(1941年)から42年にかけて、アメリカでもの凄くヒットした曲でした。   兄としては、アメリカのヒットしている曲だと、母の前では言えなかったと思います。  だから「僕が作った曲だよ」と咄嗟に言うしかなかった。  私の人生には大きな遺言になりました。   調べてようやく判ったのが、ハリー・ジェイムス&ヒズ・オーケストラ『スリーピー・ラグーン』でした。    アメリカの音楽に親しんでいきました。

当時女性でなれる職業は限られていて、原節子さんの映画を見て私も女優に成れるかもしれないと思って、新聞で新人募集の広告があり受けてみようと思って入ることが出来ました。てんぷくトリオと出たりしましたがなんか違うと思って、即興のモダンジャズが日本にも入ってくるようになり、モダンジャズを聴くようになりました。   大橋巨泉さんがジャズ評論家としてものを書くようになり、私も書けるかもしれないと思ってジャズの専門誌に投稿しました。  原稿を書くようになって、ラジオの番組の選曲係、台本書きなどしていましたが、テレビに押されてラジオの方の活動資金も細り、しゃべることもやるようになりました。  女性では初DJでした。   仕事をいただくとやれてもやれなくてもことわりませんでした。   

1960年代海外から歌手がやって来るようになり、仕事を頂きました。   パット・ブーンが日本に来た時に、お金は要らないから司会をさせてくださいとお願いして、パット・ブーンと仲良く成ればエルビス・プレスリーを紹介してもらえると思いました。   1964年東京オリンピックの閉会式のときには飛んでいきました。   吉田正先生から餞別として20万円いただき吃驚しました。   ニューヨークでテレビ出演することになりました。   NHKの「私の秘密」に似た番組があり、それに出ませんかと言う事で、もし20問で私の職業が当たらなかったら賞金500ドルという事で出ることになり獲得しました。   エルビス・プレスリーに会う機会があり、彼に結婚証書へのサインをお願いしてサインしてもらいました。  どうしてそうなったのかという事は結構いっぱいあって、マイケル・ジャクソンとも12回会って、仲良くなれたという事を、どうしてと言われても良く判らないです。   

会いたい人には会いたいと思って、自分で出来る範囲のことは尽くしますが、会えた時に私は言葉を越えて手も足も表情も全部動員して全身でしゃべっていると思います。     その状況がうれしかったです。  

22年間連れ添った元夫が4月に亡くなって、本当に悲しい思いをしました。  でも人は生きなければいけない。  今笑えること、今家族と一緒に楽しめる事、をSNSで発信しています。   高齢のかたも若い方に教えてもらってスマホなど使いこなせば、もっと世界が広がると思います。