頭木弘樹(文学紹介者) ・【絶望名言】正岡子規
「病床六尺これが我が世界である。 しかもこの六尺の病床が余には広すぎるのである。
わずかに手を伸ばして、畳に触れる事はあるが、布団の外へまで足を延ばして身体をくつろぐ事もできない。 はなはだしい時には極端な苦痛に苦しめられて五分も一寸も身体の動けないことがある。」 (正岡子規)
俳句や短歌の世界に革命を起こした人で俳人であり歌人である人です。
1867年10月14日に生まれたが、明治維新の前の年です。
生まれた翌月11月が大政奉還、12月が王政復古です。
武士の家に生まれたが、明治になって俸禄ももらえなくなる。
2歳の時に火事で家が全焼してしまって、4歳の時に父が亡くなってしまう。
母親は子規と妹を育てるのにかなり苦労をする。
子規は言葉をしゃべれるようになるのが遅かった、ほかの子どもたちがちゃんと喋れてる頃でも、正しい発音ができなかったりした。
身体も弱く腕力もなくて、気も弱くてほかの子どもにはかなわなかった。
「僕は子どもの時から弱みその泣きみそと呼ばれて小学校に行ってもたびたび泣かされていた。
例えば僕が壁にもたれていると右のほうに並んでいた友達がからかい半分に僕を押してくる。
左へよけようとすると左からもほかの友達が押してくる。
僕はもうたまらなくなる。
そこでその際足の指を踏まれるとか、横腹をやや強く突かれるという機会を得てすぐに泣きだすのである。
そんな機会がなくても2,3度押されたらもう泣きだす。」
(「墨汁一滴」の中の一節)
成長するにつれて段々気も強くなって行って、運動は苦手だが野球は大好きだった。
ベースボールが入って来たばっかりで「野球」という言葉もなかった。
正岡子規が自分でバッターを「打者」、ランナーを「走者」、デッドボールを「死球」とか日本語に訳している。
20歳の時に病気になってしまい(結核)、この時に子規という名にしている。
子規とはホトトギスのこと、鳴いて血を吐くホトトギス。(口の中が赤いためにそう見える)
28歳の時に歩くこともできなくなる、脊髄カリエスになってしまう。
34歳で亡くなるが、その時までずーと寝たきりになってしまう。
「病床六尺これが我が世界である。 しかもこの六尺の病床が余には広すぎるのである。
わずかに手を伸ばして、畳に触れる事はあるが、布団の外へまで足を延ばして身体をくつろぐ事もできない。 はなはだしい時には極端な苦痛に苦しめられて五分も一寸も身体の動けないことがある。」 (「病床六尺」という文章の書き出しの部分 正岡子規)
「病床六尺」は新聞連載で毎日127回連載して死ぬ2日前まで書いている。
正岡子規が病床でどうなっているのか、読者は実況中継のように毎日読んでいた。
私(頭木)は正岡子規は避けていました、20歳で難病になり13年間病症にあったので読むのが怖かった。
絶望の言葉がすべていいわけではない。
「悟りという事はいかなる場合にも平気で死ぬる事かと思っていたことは間違いで、悟りという事はいかなる場合にも平気で生きていることであった。」
(「病床六尺」の中の言葉 正岡子規)
当時痛みに苦しんでいて死にたいと願うほどだった。
痛みには凄くレベルもあり、種類もある。
健康な人は痛みが限られているが、病気になって人間にはこんな痛みがあるのかと私は驚きました。
本当に我慢しにくい痛みがある。
「痛みの激しい時にはしょうがないから呻くか、叫ぶか、泣くか、または黙ってこらえているかする。
その中で黙ってこらえているのが一番苦しい。
盛んに呻き、盛んに叫び、盛んに泣くと少しく痛みが減ずる。」(「墨汁一滴」の一節)
「笑え笑え、健康なら人は笑え。 病気を知らぬ人は笑え。 幸福なる人は笑え」
(「病床六尺」の中の一節)
「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」 (正岡子規)
*お寺の鐘の音を組み合したミュージックコンクレートによるカンパノロジー
(黛敏郎作曲)
子規がまだ歩けるころに奈良にいき、好きな柿をドンブリ一杯若い女性が持ってきてくれて柿の皮をむいてくれて、柿を食べた。
「柿も美味い、場所もいい、余はうっとりとしていると ボーンという釣り鐘の音が一つ聞こえた」
そういった中で生まれた句だそうです。
「柿食うも今年ばかりと思いけり」 という句も作っている。(翌年亡くなる。)
「世の中の重荷降ろして昼寝かな」 (正岡子規)
実際には世の中の重荷降ろせず昼寝できず、かもしれませんが。
この句は子規の願望かもしれません。
病気には休みがない。
病人の何よりの願いは一日でもいいから休みが欲しいという事ではないかと思う。
そんな一日があればどんなに幸せかと思います。
「願わくは神 まず余に一日の間を与えて24時間の間自由に身を動かし、たらふく食をむさぼらしめ」と子規は言っています。
深刻な悩みを持っている人も同様かと思います。
「梅も桜も桃も一時に咲いている。 美しい丘の上をあちこちと立って歩いて、こんな愉快なことはないと人に話し合った夢を見た。
睡眠中といえども暫時も苦痛を離れることのできぬこの頃の容態に、どうしてこんな夢を見たか知らぬ。」
「誠を申せば死という事よりほかに何の望みもこれなく候。
生きている間に死にたいとは思うはずはないようになればいい。
回復の望みなくして苦痛を受くるほど余に苦しきものはこれなく候。
この世にてそわれぬために情死するのも同じことと存じ候。
他より見れば心弱きようにみゆべけれど、今日苦痛減じて多少の愉快を感ずる時でさえ、未来を考え見れば再びどんな苦が来るやら判らずと思えば、今が今にても死ということは辞せず候。」 (「漱石子規往復書簡集」のなかの一節 明治30年 正岡子規)
本当に悩み苦しんできた一節。
「少し苦痛があるとどうか早く死にたいと思うけれど、その苦痛が少し減ずるともはや死にたくも何にもない。
人間は実に現金なものであるという事をいまさら知ることができる。」
死にたいと思う事と、死にたくないと思う事の両方を同時に同じぐらいの強さで思う事はいくらでもある、そういうものです。
「人としての子規を見るも、病苦に面して生悟りを衒わず歎声を発したり自殺したがったりせるは、当時の星菫(せいきん)詩人よりも数等近代人たるに近かるべし。」
(星菫(せいきん)詩人→星や菫(すみれ)に託して、恋愛や甘い感傷を詩歌にうたったロマン主義詩人)
(「病中雑記」より 芥川龍之介)
「その時分は冬だった。 大将、雪隠に入るのに火鉢を持って入る。
雪隠へ火鉢をもっていったとて当たることはできないじゃないかというと、いや当たり前にすると金隠しが邪魔になるから後ろ向きになって、前に火鉢を前に置いて当たるのじゃという。
それでその火鉢で牛肉をジャージャー煮て食うのだからたまらない。」
(漱石と子規とのやり取り)
夏目漱石がロンドンに滞在しているときに子規が送った手紙
「僕はもう駄目になってしまった。 毎日訳もなく号泣している次第だ。
いつかよこしてくれた君の手紙は非常に面白かった。
近代僕を喜ばせたものの随一だ。
僕が昔から西洋を見たがっていたのは君も知っているだろう。
それが病人になってしまったのだから残念でたまらないのだが、君の手紙を見て西洋に行ったような気になって愉快でたまらぬ。
もし書けるなら僕の目の開いているうちに今一便よこしてくれぬか。
ロンドンの焼き芋の味はどんなか聞きたい。」 (正岡子規)