2019年9月7日土曜日

前田万葉(カトリック大阪教区大司教・枢機卿)・いのちの海に網を降ろす

前田万葉(カトリック大阪教区大司教・枢機卿)・いのちの海に網を降ろす
70歳、前田さんは長崎県五島列島出身、潜伏キリシタンを先祖に持っています。
長崎、広島の教会で宣教を行い核兵器廃絶運動にも携わってきました。
去年6月前田さんはローマカトリック教会で教皇に次ぐ地位の枢機卿に任命されました。
教皇からの相談を受けて助言をするなど、教皇の最高顧問としての役割を果たします。
枢機卿に就任して1年余り、前田さんは海外にも出かけ平和の懸け橋となる事に力を入れています。
ローマ教皇フランシスコは今年11月に日本を訪問するいこうを明らかにし、前田さんは受け入れる準備を進めています。
日本人の枢機卿として伝えていきたいこと、又その信仰の原点について伺いました。

5月20日電話が来まして、いきなり「おめでとうございます」といわれて、枢機卿に信任されたという事がニュースになっているという事だった。
ニュースで自分で確認して青天の霹靂だと思いました。
バチカンで親任式がありました。
五島列島仲知の出身で少年時代には周りは住民のほとんどがカトリック信者でした。
キリスト教が禁じられていた江戸時代半ば、長崎の潜伏キリシタンたちは弾圧を逃れて五島に移り住みました。
親から子、孫へとひそかに信仰を伝えていったのです。
潜伏キリシタンを先祖に持つ信仰篤い両親の元、前田さんは11人兄弟、上から二番目の長男として育ちました。
雨が降ろうが毎日朝6時から早朝ミサのために朝5時半ぐらいから起こされて、辛かったです。
小中学校だけで270名ぐらいいましたので、毎朝100人ぐらい来ていました。
おっぱいを飲むときも赤ちゃんのころから母親が赤ちゃんの手を取って赤ちゃんは十字架を切らされていました。
それはごく普通でした。

江戸の末期、長い鎖国が終わり長崎では大浦天主堂の建設が始まります。
外国人に限り宗教の自由が認められるようになったのです。
それを知った五島のキリシタンは自分たちの信仰を公にします。
そんな時に島で事件が起こります。
前田さんの曽祖父一家を含むキリシタン200人が役人に捉えられ、わずか6坪の牢に8か月間監禁されたのです。
不潔な牢で食べ物もなく前田さんの先祖3人は命を落とします。
そのような中で生きながらえた人々の信仰は揺るがず、島の人々は弾圧を耐え抜きました。
それを聞いて素晴らしい生きざまに誇りを思っていました。
自分も命がけの生き方をしたいと思ったりもしました。
そんな惨いこともうけたのかという思いもありました。
島の小学校を卒業後、長崎の神学校に入学します。

それは神父を志しながらも教師になった父の強い願いでもありました。
朝5時半からラジオ体操、ミサにあずかって食事をして、掃除、嵐山中学に通学して、4時頃帰ってきて、神学校の授業が1時間あって、夕食があって、30分休み時間がありすぐまた授業です。
最初は布団の中で家が恋しくなって泣きました。
勉強でわかることによって、イエス様などのことがわかってきて十字架の意味などのことも理解できるようになって、ますます好きになってきて、神学校が楽しくなりました。
18歳からは福岡の大神学校で哲学、神学を収める傍ら通信制の大学でも学び充実した生活を送りました。
自由への誘惑も沸き起こってきて、結婚へのあこがれもありいろいろ悩みました。
神学校を辞めるといってでたこともありましたが、父親からひどく叱られました。
親戚の人たちにも謝って来いといわれました。
一番会いたくない人とばったり会ってしまって、辞めるとはとうとう言えずに家に帰りました。

みんなの祈りだけは裏切ることはできない、前田さんに決心をさせたのは子供のころから見てきた神父の生き方でした。
いろんな人と交わって行かないといけない、それは命がけでないとできない、仕事の大切さ、永遠の命のお医者さんみたいな手助けと思うのでその道にたける人になりたいなと思いました。
福音書の5章の5節に「お言葉ですから網を下ろしてみましょう」という聖句がありますが、子供のころから不漁を体験していたので神様からのなにかあたえがなければ私たちは生きてくことさえできないので、人間的なことで一生懸命努力してもどうにもならないという時がある思うので、この言葉を思い出して、自分を最後に奮い立たせる言葉としてこれを選ぼうと、そしてその通りにすればきっと体力が与えられるだろうと、そういう風に期待してそういう覚悟で選びさせてもらいました。

母は被爆者でした。
突然丸太のようにパンパンに膨れ上がって歩けなくなったりしました。
母は60歳ぐらいになると脳梗塞など大きな病気をくり返すようになり、一人での生活が難しくなってきました。
当時長崎で宣教していた時に呼び寄せて一緒に暮らすようになりましたが、母清子さんが79歳の時に突然東京への移動を命じられます。
病気の母を思う葛藤との中で前田さんを助けたのが聖書の言葉でした。
「お言葉ですから網を下ろしてみましょう」という座右の銘を放棄することは自分の大切なものを放棄するように思えて東京にいくことにしました。
2011年62歳の時にカトリック広島教区の司教に命じられます。
被爆地広島への赴任に前田さんは神の意志を感じたといいます。
2年後前田さんは広島県宗教連盟の理事長に就任します。

広島県宗教連盟は県内の神道、仏教、キリスト教の代表が集まり、宗教者の立場から平和を訴える活動を続けてきました。
前田さんが活動の指針としたのは、1981年広島を訪問した教皇ヨハネ・パウロ2世が行った広島平和アピールです。
「戦争は人間の仕業です。 戦争は人間の生命の破壊です。 戦争は死です。」
私自身も政治、経済にかかわる問題、そういったものを平和の観点から、人間の命の尊厳、人権そういった人格を損なうことが無いようにとかを政界、財界に対してでも要請していかなければいけないと思いました。
前田さんの思いは現在の教皇フランシスコとも強く響きあいます。
2013年に就任した教皇はアルゼンチンの出身、母国の貧困層への対策に力を注いできました。
教皇に就任後は核廃絶と平和を強く訴えています。
2017年教皇は一枚のカードを作り世界中に配るよう指示しました。
終戦後長崎に従軍したカメラマン、ジョー・オダネルが撮影した写真「焼き場に立つ少年」です。
亡くなった弟を背負い、焼き場で順番を待つ少年、きつく唇を噛みしめ悲しみをこらえて直立するその姿に教皇は「戦争がもたらすもの」という言葉を添えました。
核兵器はもってのほか、作ってはいかんという事を強く訴えたいという表情は本当に真剣でした。

日本は10歳代の自殺者が多いという事もおっしゃいました。
いじめ、差別などいろんなことが起きている、小さい時から助け合っていけるような人格形成が必要じゃないかと感じているので、不自由をしながら自分で体験がわかる人の苦労悲しみも体験として自分のものにできるような環境つくりを考えなければいけないと思います。
思いや入りのある人間、慈しみのある人間、人の悲しみに同情できる人間、そういう人たちが社会を指導するようになって行けば、差別、いじめなどは無くなってくると思います、あきらめてはいけない、希望をもって努力してゆく事が価値があり、実現につながってゆく事だろうと思います。