小林まさる(料理研究家) ・【"美味しい"仕事人】86歳の人生レシピ
小林さんが料理の世界に入ったのは、70歳の時でした。
きっかけは長男の嫁が料理研究家としてデビューしたことです。
その手伝いを引き受けたことから料理のアシスタントを務めるようになりました。
小林さんは定年退職後共働きの息子夫婦を助けるため、炊事洗濯など家事全般をこなしていたので、ごく自然に料理の席に入ったといいます。
アシスタントとしてTV番組などにもたびたび登場するようになって、朴訥で誠実な人柄が人気となり、78歳の時に料理本を出版、名実ともに料理研究家となりました。
私の人生は棚からぼた餅だと語る小林さんに86歳の人生レシピを伺いました。
NHK今日の料理、あさいちの料理の時間に時々ご出演をさせていただいています。
長男の奥さんの小林まさみさんが料理研究家として出演されています。
一緒に出演する機会が多いです。
喧嘩もありますが、それが長引いたら駄目です。
料理番組では準備が結構大変です。
打ち合わせ、試作、撮影、後のチェックなどいつも頭から離れないです。
試作も一回でOKという事はなく3,4回はあります。
買い物があり、料理道具、食材などをいっぱい持ってきます。
20kgぐらい運ぶ時もあります。
家の仕事も掃除から全部やります。
まさみちゃんが忙しいのがわかっているので、引き受けています。
嫁は会社勤めでしたが、辞めて料理の勉強をしたいと学校に行くといったのでびっくりしました。
まさみちゃんが本を出すころにアシスタントを探していました。
「それじゃあ俺がやってやるよ」と声を出しました。
このお父さん使い物になるといわれました。(70歳の時)
厨房に入る抵抗はなかったです。
妻の体が弱くて入退院を10年ぐらいしていて、料理はやっていました。
小さいころは樺太で過ごして山に行ってナイフを使ったり、釣りをしたりしていました。
食材はいっぱいありました。
泊りがけで鮭の釣りに行って、釣った鮭を料理したり、飯盒でコメを炊いたりしていました。(小学校2年生のころ)
鉄鋼会社に入って3交代制で、子供の弁当なども作っていました。
アシスタントをやっていたが、76歳の時に或る人から作ってくれないかという仕事が来ました。
年間4冊の雑誌に料理を5品を出してほしいという事でした。
「まさるのつまみ」というテーマでしたが、2年間ぐらい続きました。
するめを細くしたものに明太子を絡めたり、アボガドをつぶして明太子を絡めたりしたものをクラッカーに付けて酒のおかずにするとか。
明太子とアボガドは合います。
雑誌の料理がまとまって本になりました。(料理本の出版 78歳の時)
TVにも出るようになりました。
昭和8年生まれ、7人兄弟の長男、父は炭鉱の機械を修繕する仕事でした。
13歳で終戦になり、15歳まで樺太にいました。
ロシア人が入ってきて、日本の機械で炭鉱で掘っていたので、ロシア人は機械の修理ができないので父は返してくれなかった。
攻撃してきたころには今日死ぬのかな、明日死ぬのかなと思いました。
マイナス45度も経験しました。
食べるものには本当に苦労しました。
15歳で北海道に渡ってきて、高校を卒業して炭鉱に仕事をしました。
27歳の時に会社から突然掘削機のことでドイツに行って来いといわれました。
3年間ドイツに行ってきました。
ドイツに行っている間にその会社の鉱山は閉山になりました。
帰ってきたときには別の炭鉱、芦別炭鉱に入り、そこで8年働きました。
炭鉱が閉山になる前に東京に来て鉄鋼会社に入り、60歳で定年を迎えました。
70歳まではいろいろ好きなことをやっていました。
長男が結婚して同居することになりました。
一人で暮らそうとは思っていたが、長男の嫁から一緒に暮らすように勧められました。
「まさるさんの漬物」
辛めの味付けでご飯にも酒のつまみにもなります。
20歳ぐらいから漬物は作っていました。
味付けにいろいろ工夫をしてきました。
クラウドファンディング インターネットを通して自分の活動、夢を発信することで思いに共感した人が活動を応援したいとか手伝いをしたいという事で支援を寄せるというシステムになっています。
最近では「京都アニメーション」を支援するクラウドファンディングが活用されています。
「まさるさんの漬物」もクラウドファンディングで応援しようという事になりました。
夢は定年退職した人に料理を教えるとか料理教室を開きたいです。
酒のつまみの料理教室をやってそのあとに酒を飲みながらいろいろみんなで話し合ったりしたい。