2019年9月13日金曜日

小林照子(美容研究家)           ・美しくあれ

小林照子(美容研究家)           ・美しくあれ
大手化粧品メーカーで初の取締役となった。(84歳)
取締役退任後は自らの美容研究所を立ち上げ、メイクアッパーアーティストを養成する学校を開設しています。
さらに2年前には、美しく生きる知恵を次の世代に伝えたいと、メイクアップを志す人への奨学金制度をスタートさせました。
美意識のある生き方を後世に伝えたい、美容とは手入れでありその人本来の魅力を引き出し、その人が自信をもって美意識をもって生きるお手伝いをすることです、と小林さんは言います。
美容にかける小林さんの思いを伺います。

やるべきことだけをやる、肌は汚れた肌を自分でお掃除することはなかなかできないんです。
汚れを取ってあげるという事が第一。
まず家にもどってきたら直ぐにクレンジングクリームを使って落とす場合もあるが、乳液をコットンに含ませて取ってしまう場合もあります。
潤いを与え続けているという事だけはしています。
手を洗った後乳液をつけてそれを、手に与えてから残りを顔に与える。
肌を乾かさないという事をまめにやっています。(乾燥させない)
モデルは背中をまっすぐにして、頭の上に本を載せて歩きなさいというように訓練をしている。
そういう人は常に歳をとっても背筋がまっすぐなんです。
歳をとってからでも、気が付いた時からそれをやれば大丈夫です。
背筋が整うとすべてが整う。
頭は重いから背筋が曲がると顎を突き出すようになって、お腹を出して膝をだしてS字型になってくる。

肌も体も顔も意識で整うことができる。(それぞれの筋肉を意識する)
自分自身に愛情を注ぐことが必要です。
昔はモデルは日本だと普通に、自然にしてくださいという感じだったが、ニューヨークなど外国に行くと私をアピールしてというようなニーズがすごく多かった。
1960年代ぐらいから日本もどんどん変わってきました。
化粧品会社といえども男性社会で、ジャッジするのは全部男でした。
ロンドンでビートルズ、ヒッピー、ミニファッションが出てくると、日本も流行という時差をゼロにするようになってくる。
どんどん取り入れてゆく日本がありました。
若くて流行に飛びつく人はお肌の手入れには見向きもしなかったです。
流行への商品開発もしましたが、それでは肌がボロボロになりますよという啓蒙活動もしました。
私たちプロは遠目も近目も全部ナチュラルに見えることを追究していきました。

山形に疎開して10歳で終戦を迎えましたが、東京大空襲の時には何十万人も亡くなり東京にいたら私もいなかったと思います。
山形ではのどかでした。
戦後に演劇サークルを作りました。
山本安英がやっていた「夕鶴」、木下順二脚本、に影響されてやったりしていました。
メイキャップで何で人格まで変わるのだろうと思って、メイキャッパーになりたかった。
東京に戻って美容学校に入りました。(19歳)
日本では昔から白粉と紅というのが化粧法でしたが、戦後化粧も解禁になると1960年代から覆されました。
まつげをつけ、アイメイクが普及してきました。
時代の顔を作っていかなければいけなくなりました。
2年先を見据えて考えて提案するわけですが、男性の許可を得ないと動かない状態でした。
最初は喧嘩ばかりしていましたが、一番反対していた人を味方につけたときに物凄い強力な味方になりました。
絶対人はこれを求めるはずだ、これを出すことでみんな喜ぶはずだ、これは正しいという信念でした。
それはいろいろな世界からのリサーチでした。
男性は過去のデータを持ち出しその延長線上で考える。
人は見飽きて、極端に振れたりじわじわ変化したりすることになってゆく。
人生100年時代、50代ぐらいまでは何もしなくても皮膚の寿命としてちゃんと生きてこられる。
50歳からは自分が手入れをすることによって、寿命を延ばすことができる。
50,60代の人に言いたいのは美意識を持つ事。
お肌は潤うと表情筋がよく動く、表情が豊かになる、乾燥しているとつっぱらかる、厚化粧しても同じ。
老人養護施設、看護師などはこちら側の肌がしっとりして笑顔で対応してあげることで相手側も元気を頂くことになるんです。
美容を64年やっていますが、本当にこの世界こそもっともっと広めたい。
自信のない人に自信を与える、勇気のない人に勇気を与える、コンプレックスを持っている人にコンプレックスなんかどこかへいってしまうような、こういうことを与えられるのが美容です。
人を育てることによって私が見えない世界をその人たちが見せてくれる。
美は人の心からの喜びを作るという事です。