大城立裕(作家) ・伝統文化で戦争を語り継ぐ
1925年沖縄県なかぐすく生まれ、94歳になります。
太平洋戦争中は上海の東亜同文書院大学(とうあどうぶんしょいんだいがく)の学生でしたが、徴兵されて兵役に就きました。
戦後は米軍通訳、高校教員を経て琉球政府沖縄県庁に勤務する傍ら沖縄の矛盾や苦しみを見つめた小説や戯曲を発表し、1967年には「カクテルパーティー」という作品で沖縄では初めての芥川賞作家となりました。
大城さんは今年沖縄の伝統芸能組踊が上演300周年を迎えるに当たって、終戦後の沖縄の収容所を描いた新作「花よ とこしえに」を書き下ろし先月舞台が初披露されました。
大城さんの戦争体験と新作組踊についての思いについて伺いました。
沖縄の国立劇場建設運動を役員として10年間やってきました。
建物が出来上がるころに伝統芸能を継承するには新作が無ければ嘘だろう考えたんです。
沖縄方言も自由自在に喋ることもできました。
組踊の唱えは3,8,6 と言って独特の「8,8,8,6」の調子なんです。
これに私は子供のころからなじんでいました。
年に一度村芝居があり組踊りが入っていました。
それをまねて遊んでいました。
そういったことがあり、これは私が書くしかないと思いました。
歴史を5つの時代に割ってそれぞれ一つずつ題材を作って書けばいいと思いました。
組踊の伝統には近代はないのでどうしようかと思いました。
戦争を扱うことにしてそれが「花の幻」で、主人公が有名な芸能人でこの人が戦場で亡くなったという事を伝説の様に聞いたのでこれを組踊にしたいと思ったのが「花の幻」です。
戦後はさらに難しくて、いろいろやってきて「花よ とこしえに」が一番新しいものになりました。
「花の幻」では大和兵隊を出しましたが、なぜ出したかというと、三線を日本の兵隊が折るという事で、日本の権力が琉球芸能を滅ぼすという事の象徴として書いた訳です。
太平洋戦争時代は私は上海の大学でしたので、日本の内地の戦争体験、戦争の雰囲気は知らないわけです。
学徒兵隊にとられて、初年兵の訓練を受けて蘇州の近辺の村々を訪れながら訓練を受けていました。
幹部候補生に受かって、蘇州の支団に集まって、訓練の教育が始まるといったのが8月15日でした。
午前中に機関銃の組み立てなどの訓練を受けているときに、下士官たちが忙しそうにしていました。
しばらくしてから「戦争が終わったからやめ」、これで終わりでした。
教科書がいろいろありましたが、焼けという事でしたが膨大でなかなか焼けなかった。
上海に戻ったのが戦後で、学校は無くなり日本人街に行って自活しなければいけなかった。
中国語の通訳として貨物省に入り食料などは何ら不自由しなかった。
地方により訛りが酷くて筆記で行ってそれを発音してもらって、いろんなところでいい勉強になりました。
初めて会っても、その人がどの地方の人かが判る様にもなりました。
沖縄の事は父から手紙が来て、姉が子どもたちをつれて熊本に疎開したという話もありました。
沖縄の戦況は殆ど知りませんでした。
初年兵の訓練では自分の時間が全くありませんでした。
帰りの船の中で沖縄に帰って方言を自由にしゃべれるんだろうなということでした。
那覇の港に入ったときには、ぎっしり建物が詰まっていたはずのところに鳥居だけが見えて、道路の広さにびっくりしました。
アメリカに支配されていることが如実に予感しました。
中城の両親の家に身を寄せました。
基地での労働後、非常勤の高校教員になりました。
生徒たちからは評判は良かったです。
反戦教育というわけではなく、私が学生時代に仕入れた思想をそのままぶつけて教えました。
国語はアメリカは嫌って(沖縄は国ではないし)、文学のことを教えました。
2年間で教員を辞めて公務員になりましたが、教員時代の2年間が私の人生の最高の人生でした。
両親は大丈夫でしたが、母の実家は6人全滅でした。(情報は全然わからず)
伝統芸能組踊が上演300周年という事で組踊がなお一層栄えていくようにとの趣旨で書いてくれという事でした。
クリスマス演芸大会は歴史にのこるイベントです。
「花よ とこしえに」主人公は娘を亡くして収容所で再会できた夫婦、孤児になった少年との出合いがある、それが組踊の役者です。
組踊はよく生き延びたなあと思います、後輩たちはよく受け継ぎました。
「花の幻」では主人公の芸能人、師匠が亡くなるが、死ぬ時に何を考えたんだろうか、芸能の未来を憂いながら死んだに違いないというのが、私のテーマです。
組踊はよく生き延びたなあという思いを込めて、「花よ とこしえに」を書いた訳です。
沖縄問題、戦争、平和については書くだけ書いたので、それを読んでほしいと思います。
沖縄に関して関心を持っていただきたい思います。(基地問題、芸能、文学、生活風俗など)