ファム・ディン・ソン(カトリック主任司祭)・ベトナム難民の私が日本で見つけた人生(2)人の出会いに支えられて
17歳の少年ファム・ディン・ソンさんは自由を求めてボートでベトナムを脱出しましたが、定員の10倍の人が乗り込んだ難民ボートはすぐにエンジントラブルで漂流してしまいました。
脱出をして7日目にたまたま通りかかった日本人船長のタンカーに救助されました。
その後18歳のソンさんは難民として日本に受け入れられ、言葉を学び、仕事を覚え、持ち前のバイタリティーで自分の人生を切り開こうとしています。
タンカーは日本に向かって10日後に着くと知らせてくれました。
しかし、日本に連れて帰ることができなくて申し訳ないと船長が謝りました。
政府がフィリピンに降ろす様にとのことで、3日後にフィリピンに降ろされました。
受け入れてくれる国がなく難民キャンプに入所して、いつどこへ行けるのかわからなくて希望のない日々が続きました。
8か月後突然日本に行くという事になりました。
福岡空港に到着しました。
難民第一次対象者でした。
健康チェックがあり、姫路促進センターに送られて初めて日本語の勉強をしました。(3か月)
殆どわからない状況でした。
山梨県の貴金属の会社に入りました。
父の教えに従い勉強をしたいという思いがあり大学に行きたいと思っていたが、お金がないのでまず手に職をつけるためにその会社に入りました。
同じボートに乗ったもう一人と二人でその会社に行きました。
段々言葉がしゃべれるようになって、甲府教会に行くようになりました。
イタリア人の神父さんとの出会いのなかで、神父さんから日本語を学びました。
ある女性と知り合いその母親が教育委員会の人で夜間高校の聴講生としていくことになりました。
翌年入学試験に受かりましたが、会社は認めなくて、別の会社(コピー機の修理)に行く事になりました。
学校では40人ぐらいの人がいて、当時私は21歳でした。
楽しい時間を過ごすことができました。
2年目の春休みに大きな交通事故にあってしまいました。
頭を割って、体も複雑骨折をしてしまいました。
幸い目が覚めてベッドの上にいました。
入院して手術をして足も繋がりました。
仲間たちが毎日学校から入院先(20kmぐらいあるが)に学校で習ったことを書いたノートを持ってきてくれてありがたかったです。
ギブスには友達らの名前などがいっぱい書かれていました。
汚れた衣類などは夜間高校の友達の母親たちがやってくれました。
当時は学校には行けない、会社にも行けなくて収入もない、自分以上に不幸な人間はいないだろうと思っていました。
会社は交通事故に対しては冷たい対応でした。
入院中に神父さんがやってきて、以前神父さんになりたいといった事を覚えているのかと、遠回しに何度も問いただしました。
アメリカに行くかといわれました(神学校へ行って神父の道を歩むか)、それなら勉強しなさいと言われました。
英語を勉強しなければいけないと思っていたら、病院の同室の老人から「毎日友達が来てくれて幸せだね」と言ってくれて、涙が出てきました。
言葉の重みを感じて、方向転換させてくれたのかなと思いました。
退院まで10か月かかりました。
教会のつてで横浜区教会に入りそこから受験することができるように手配してもらいました。
アメリカに行くことはなくなり、上智大学を受験して神学に入って司祭のための勉強をしました。(23歳)
38年間日本にいて、人がいなければたぶん自分はたどり着かなかったと思います。
僕は漢字が好きです。
「人」という字には意味があり、たくさんの人が支えてくれたために今生きているという事だと思います。
必至に生きていたために、いろんな人とつながってくると思うんです。
運命という言葉がよくつかわれるが、私は運命はないと思います、運命があったら人間が駄目になる、人生は定められているものではない。
人生は一歩一歩自分で歩んで一生懸命生きることだと思います。
人との関わりができて世界を広く見れる、世界が変わってきます。
人に迷惑をかけないようにと親は教えるが、年々意味が変わってきているように思う。
人に迷惑をかけなければなにをやってもいいというように、発展してしているような。
触れ合いが少ないなかで人に迷惑をかけないようにというような。
人はある程度迷惑をかけあいながら生きるという方が正しいように思う。
いろんな人との触れ合いの中で生きるという事は温かい、冷たいという事がわかってくると思います。
出会いが無かったら今の私はないです。