2019年9月12日木曜日

横井美保子(横井庄一記念館館長)      ・夫の遺志を受け継いで

横井美保子(横井庄一記念館館長)      ・夫の遺志を受け継いで
横井庄一さんは戦後28年ぶりにグアム島のジャングルから生還し、「恥ずかしながら生きながらえて帰ってまいりました。」という帰国の言葉に日本中が吃驚したものです。
お二人が結婚するいきさつは美保子さんが横井さんの知り合いに強く依頼され、お見合いをすることになったのが始まりでした。
結婚生活25年、横井庄一さんは82歳で亡くなります。
「命を粗末にするな」が口癖だった横井さんは全国から送られた見舞金を生かし、記念館を作ることが夢だったのです。
そこにはジャングル生活で身に付けた、生きることの大切さを知ってほしいという思いがあったのです。
その遺志を生かし美保子さんは2006年自宅を記念館として開設し、現在ではNPO法人の認可も取得して無料で運営しています。

私は91歳8か月になります。
横井正一さんが生還されて50年近くになります。
1915年3月31日、愛知県佐織村生まれ、小学校卒業後洋品店に勤務、20歳で徴兵
4年後は仕立て屋を開業、昭和16年再徴兵、満州へ、昭和19年グアム島へ、8月にアメリカ軍がグアム島へ侵攻、戦死広報が届けられたが、無条件降伏のことを知らずにゲリラ戦のような形で戦っていた。
1972年地元の方に発見されて、57歳で28年ぶりに日本に帰国。
イタリアの方から「万歳」という詩が送られてきた。
「恥ずかしながら生きながらえて帰ってまいりました。」という言葉に対する批評を送ってくださった。
小さい記念館ですが北は北海道から南は沖縄までいらっしゃいます。
6畳の部屋には横井さんが工夫して作ったものとか晩年に趣味で作った陶芸品、別の部屋にはジャングルの中で暮らし潜んでいた洞穴の模型を展示しています。
実物は1,5mぐらいですが模型は2m以上になっていますが、この中ではた織り機を作り、はた織り機ではたを織り、洋服生地を作って洋服を仕立てました。
植物繊維を撚りとって繊維にして、自分ではた織機を制作して仕立てた。
地元の人が夕飯を食べ寝るころになって、自分の食べるもの、薪をとることを日課にしてジャングルの中を歩き回りました。

私の一貫学校の校長先生が見合いの件で会うだけあってほしいといわれました。
もしご縁があるならと思って覚悟していきましたら、結婚の意志もないのに私を見に来たんだろうといわれました。
心の中ではなんて失礼な人だろうと思っていましたが、仲人さんもいたので黙っていました。
二人になったときにあれは失礼ですよと言って、もっとゆっくりとお探しなさいといったら、すぐに怒ってくれる人が好きだといって、それがご縁ですね。
「できることなら海の上を歩いて帰りたかった」という言葉がありましたが、黙っていましたが、自分の人生がいよいよ終わるころに「できることなら海の上を歩いて帰りたかった」といいました。
横井の生涯はこの家で25年暮らしましたが、13年は元気でしたが、後の12年間は胃癌の手術、脱腸の手術、パーキンソン病も出てきました。
手足が動けなくなりどんどん弱っていきました。
最後は心臓が弱って亡くなりました。

横井庄一さんの母親つるさんは戦死広報が届いても信じていなくて、同部隊だった人に手紙を送っています
「前略・・・同部隊であったとのこと、最後はどんなふうだったかお知らせくださいませ。・・・親心をお汲み取りくださいましてちょっとお知らせくださいませんか。 
昭和21年11月4日 横井つる」
戦後生きていると信じ続けて墓を作らなかったです。
昭和30年に周りの説得に負けて墓を作ってその3年後に亡くなりました。
再会できたらどんなに良かったか・・・。
「命を粗末にするな」「二度と戦争はごめんだ」でした。
講演の題は「食うな、着るな、使うな」でしたが、それでは死んでしまうよと言われたら、そのうえに「余分なものは」という言葉が付くんだよと言っていました。
彼はユーモアのセンスを持っていました。

グアム島から帰ってきてからもずーっと努力はしていました。
昭和47年11月3日の結婚式。
「わしのおっかあは歳くっていて皴があるから、クリームで埋めて綺麗にしてちょ、たのむしょ」と美容師さんに言ったそうです。
人柄が出ています。
TV出演で司会者からお嫁さんのお話はと聞かれ、ポケットからゆっくりと白い紙を取り出して、答えはこの中にと真面目な声で言った。
「神(紙)のみぞ知る」

グアム島から帰ってきてもその続きのような生き方をしていました。
前向きに、物事に感謝して、物を大事にして、現実を見つめていける賢さを持っている人でした。
60歳を超えて陶芸も始めました。
自分で工夫して、ろくろを引かないで手作りでやりました。
気に入らない作品を一杯捨てていました。
「ひとくれの 土に向かいてひたすらに 学びし日々の時豊かなり 壺つくり 土は私
私は土」 横井庄一
暇さえあれば土に向かっていました。

講演の最初には必ず「皆さんのお陰です。」と感謝の言葉を述べていました。
記念館がNPO法人になりました。
「この8月」
「広島には6日、長崎には9日 人間の作った原子爆弾が人間の手で落とされた。
街は一瞬にして阿鼻叫喚(あびきょうかん)の巷となり、地獄さながら幾十万の老若男女は生きたまま焼かれ苦しみぬいて死にました。
この8月緑濃き小さな庭に毎年白い猿滑りの花が咲きます。
白百合の花も咲きます。
戦争で奪われたたくさんの命を惜しむかのように白く美しい花が風に揺れています。
まるで鎮魂歌のようだとつぶやいた貴方 あーっもう貴方もいない。」
横井も私も戦争でひどい目にあっていますが、絶対に戦争は防ぎたいと思いますが、記念館があると無いとでは違うと思うので、どんなに小さな灯でも戦争反対の灯はあったほうがいいと思って記念館を開いています。
命を大切にみんなが一人でも多くの人が幸せに暮らせますように、そういう世の中を祈って努力していきたいと思います。