2019年9月3日火曜日

ファム・ディン・ソン(カトリック主任司祭)・ベトナム難民の私が日本で見つけた人生(1)自由を求めてボートでベトナム脱出

ファム・ディン・ソン(カトリック主任司祭)・ベトナム難民の私が日本で見つけた人生(1)自由を求めてボートでベトナム脱出
カトリック厚木教会の日曜ミサにはベトナムを始め厚木周辺で暮らす在日外国人が大勢集まってきます。
ベトナム人神父ファム・ディン・ソンさん56歳は在日外国人の様々な悩みや相談に乗り異国で暮らしている人の心の支えになっています。
1963年当時のサイゴン、ホーチミンで生まれたソンさんはベトナムをボートで脱出し、18歳の時に日本にやってきました。
ソンさんは幼いころテト攻勢の爆撃に逃げまどった戦火の記憶が鮮明に残っているといいます。
1975年北ベトナム軍を主力とする開放勢力によりサイゴンが陥落、べトナム戦争が終結しベトナム社会主義共和国が誕生します、ソンさん12歳の時でした。
しかしそれによりソンさん一家の生活は一変しました。
17歳のソンさんは自由も展望もないべトナム脱出を決意、しかし定員の10倍も乗り込んだボートは漂流し、脱出7日後に日本人船長のタンカーに助けられて、フィリピンの難民センターに送られました。
翌年18歳のソンさんは移民として日本に受け入れられ、その後さまざまな人々との出会いに支えられて日本で人生を切り開いてきました。
言葉も文化も異なる日本にやってきて、持ち前のバイタリティーで人とのつながりを作り、自分の人生を切り開いていったソンさんにお聞きします。

ソンさんは厚木教会のカトリック神父さんで、日曜日のミサには多くの外国人の方が集まります。
英語圏が中心となるフィリピンの方々、英語をしゃべるアフリカの人たち、べトナム人、中南米、ポルトガル語をしゃべるブラジルの人などが集まってきています。
日曜日は日本語、ほかに第一日曜日はポルトガル語、第二がベトナム語、第三が英語、第四がスペイン語となっています。
英語圏、ベトナム語は100人を越えます、150人ぐらいはきます。
スペイン語、ポルトガル語は50~100人程度です。
母国語で話すと心に染み込んでいきます。

家庭の問題、子供との文化の違い、会社とのトラブル(いところと悪いところがある)、自分の生き方も相談してきます。
一緒にかかわって、乗り越えていくようにかかわっていきます。
ベトナムは50年前の日本という感じです。
ベトナムのことを説明してもなかなか理解してもらえない。
北は共産主義、南はベトナム共和国の二つの国が1954年において出来上がりましたが、北から攻めてくる。
南は自然が豊富ですから。
アメリカは南をサポートし、北は中国とソビエト、キューバ、でも戦っているのは主にベトナム人同士で戦っていました。
状況をみて子どものころ何になりたいかといわれると軍隊になりたいと思うようになりました。
75年に陥落して、南にいる私たちは負けた国で迫害されるわけです。
物を奪われたり、地位の高かった人は地域を追い出されるわけです。
負けた方はおびえて何も言えなくておびえる毎日でした。
学校では全く変わって思想教育が始まって政治的に、私は小学6年でカムバックしましたが、共産主義の事しか教えてくれませんでした。
中学1年の時には打倒アメリカとさけばされるわけです。
学校では寝たふりをしたり北政府に反発ばかりしていました。
75年に新しい政権が発足して自由に物が買えませんでした。(配給制度が始まる)
米は3毛作でたくさんあるはずだが、北にもっていかれる。
親が南政権に携わったといったので学校にも行けないという事がありました。
この国から逃げようという思いが募ってきました。
共産主義は宗教は敵と思っていました。
高校1年の時に友達と逃げる道を探しました。
脱出は3度目に成功しました。
両親からはいつも反対されていました。
父がバイクで先行して、学校に行ってきますと近所に大きく聞こえるように声を出して、その後父に送ってもらって船に乗ることになりました。
向こうにいったら勉強をしっかりしろよという事は父から遺言のように言われました。
当時脱出が可能な確率は1~5%程度でした。
脱出した時には日本という国は頭の中にはなかったです。
7人乗りのボートに10倍の人が乗り込み、船が出発して船底に穴が開いてしまい、水を汲みだしながら3日目にエンジンが壊れて漂流してしまいました。
いくつかの船に出会ったが誰も助けてはくれませんでした。
7日後に大きな日本のタンカーに出会いました。
日本のタンカーは難民を助けてはいけないという風潮があったようです。
日本のタンカーは台風を避けるために路線を変えたために出会うことになったようです。
たまたま船長が我々を発見したようでしたが一旦過ぎ去ってしまった、しかし日本と連絡を取りながら30分後に戻ってきました。
台風もあり死を覚悟していたので、3日間は泣いていました。
どん底の気持ちの中からタンカーを見上げた時には言葉では言えない気持ちが起きました。
私が乗っていた船は幅が4m縦が13m、タンカーは幅が60m縦が300mでした。
生きるという希望が現実となりました。