谷川俊太郎(詩人) ・【人生のみちしるべ】"へいわ"についてぼくが考えること
1931年東京生まれ、87歳。 終戦の時は中学2年生で13歳でした。
戦時中には東京への空襲の時には沢山の焼死体を見たという体験があります。
そんな谷川さんが今年3月に"へいわ”について考える絵本を出版し、話題になっています。
絵本のタイトルは平仮名で「へいわとせんそう」 文は谷川俊太郎さん、絵は人気イラストレータのりたけさんです。
谷川さんが平和について考えていること、「20億光年の孤独」でデビューしてから間もなく70年を迎える谷川さんの人生の道しるべは何だったのか伺いました。
90年近く住んでいるとここが故郷だと感じるようになりました。
10年ぐらい前までは何にもしないことができなかったが、今は何にもしないことが平気でできるようになりました。
詩は言葉で作るわけだからどうしても意味が付きまとうが、音楽は意味が全然ないのでそれはうらやましいし、聞いていると意味がないという事に開放感を感じます。
言葉の意味に感動することとは違う感動をするので、それが快くて聞いてしまいます。
人類が発生して言語ができてから言語に意味がついてきて、意味に我々はがんじがらめになってしまって、音楽はそれを解放してくれる。
東京都の杉並区ですが、5月の東京西部の大空襲がありました。
環状7号線のあたりまでは相当の被害を受けました。
家の辺は焼夷弾が落ちなくて助かっていました。
夜中に焼け出された人達がうちのすぐ横の道をぞろぞ通っていたのは覚えています。
環状7号線のあたりまでいってみたら、焼死体がごろごろしていました。
実際の経験は小説で読んだり、映像で見たりしたのとは全然違います。
悲しいとか怖いとかは殆どなかったですね。
親戚とか知り合いが戦争で被害を受けたことが無かったから、そのような感じで済んでいたんでしょうね。
反戦のためにいろんな人がいろんなことをするが、忘れてはいけないというわけですが、絶対人間は忘れると思う。
唯一忘れないとしたら戦争の現場ですね。
実際に戦地に行って鉄砲を撃っていた人は忘れないだろうし、命からがら逃げたことは忘れないと思う。
僕の場合は環状7号線のあたりの焼死体なんです。
京都に疎開しました。(母親の里)
京都の中学校にいって東京弁について差別されました。
授業などはさぼるようになりました。
ラジオを作るようになりました。
手を動かして何かを作るのが好きでした。
絵本「へいわとせんそう」シンプルで目立ちます。
ピクトグラム 絵で直接サインを出す。(トイレの男女の絵など)
彼の絵はそれに近い絵です。
表紙には男の子の絵が描かれていて、開くと谷川さんのシンプルな言葉とイラストレーターののりたけさんのピクトグラム的なイラストが描かれています。
村上アナ:最初の左は「へいわなぼく」 男の子が腰に手を当ててすくっと立っています。
右は「せんそうのぼく」 男の子が目を閉じて眉を八の字にして膝を抱えて座り込んでいる。
「へいわのちち」、「せんそうのちち」、「へいわのはは」、「せんそうのはは」と続いている。
「くも」のところだけ写真 原子爆弾のきのこ雲(イラストでは伝えきれない)
後になって「てきとみかた」という発想を入れようと思いました。
「みかたのかお」、「てきのかお」 敵も味方もおんなじだというのをどういう風にやってくれるのかなと思っていましたが、のりたけさんが一種ユーモラスに対称的に描いてくれたので、凄くおもしろかったです。
最後は「みかたのあかちゃん」、「てきのあかちゃん」が右と左に並んですやすや眠っています。
あまりに戦争の在り方が複雑にこんがらかってきているので、できるだけ単純にしたらどうなるだろうと思って作りました。
平和というのも複雑な関係で成り立っている。
思い切って一番基本的なところをどうやって抑えるかという事だったと思います。
平和の奥に戦争の原因が隠れているという感じです。
平和の状態そのものが戦争の種を隠している。
世界中が経済的なネットワークでつながっているし、原材料の争奪戦があるし、宗教関係があるし、だからそれを単純に描くという事ができなくて、結果だけを書くしかないという感じがします。
読む人がそれぞれ考えたり想像してもらえればありがたいと思います。
詩などは特にそうだと思っていて、詩の場合は言い足りない方が詩の場合は生きると思っています。
「戦争と平和」では戦争をしてようやく平和が戻りましたという様な発想で、戦争がずーっとあって平和が貴重だというのではなくて、普通は平和であるべきだと思ったんです。
平和が常の状態であって戦争が異常事態だという風に思いたかった。
「へいわとせんそう」にしたのが一つのアイアディアでした。
自分の心の平和を保つのが一番いいんじゃないかと思います。
穏やかな心が凄く大事だと思う、直ぐ嫉妬したり喧嘩をしたりする、人間の心の動きが戦争の元にはあると思う。
敵というものを自分がもっと広い心で受け止められるようになれば、戦争の理由は少しは減るだろうと思います。
身近な関係でも繋がっていると思う。
村上アナ:以前一番大事なものは女と言っていましたが。
この頃考えが変わって愛という事にしました。
何かをとにかく好きになるという事です。
男性性、女性性があるが歳を取ると女性性が強くなってくる。
言葉ではなく行動だと思います、愛と言ったらまずハグすることでしょう、そういう習慣が日本人にはなかったからちょっとぎこちないかもしれないが、そういったことが社会に広がったらユートピアですね。
歳をとる事の長所というものを自分で考えます、人に対して寛容になる。
友達で半身不随になっている人がいるが、身体が不自由になってくるとよくわかるようになります。
考えが深くもなってきていると思います。
本でも若いころは読み過ごしていたところが、凄く心に深く感じるという事があります。
同年代の人間が自分と同じように歳を取っているのを見ると心が休まりますね。
辛いこと苦しいことがあるが、若い頃にはわからなかった人生の味は判るようになりました。
詩は人を元気付けたいし、気持ちを豊かにしてもらいたいから歳をとる事のネガティブなことを強調しては書けないが。
死んだ後の世界には好奇心があります。
どんなところに行くんだろうと思います。
死への恐ろしさはないですが、しかし実際に病気になって死期が近づいたらちょっとまた変わるのではないかと思います。
無限ともいえる宇宙の中の小さな地球というものがあって、宇宙内での自分、人類の一員であるという事の方が先行するという事が若いころから変わってはいないと思います。
人間的に色々やっているけれども、基本は草木と同じ自然なんであって、自分が生きたり死んだりするのも自然の一つのプロセスの一つだという事があります。
恵まれた環境にいたから人間的な環境を飛び越して、宇宙内での自分の環境みたいなところに飛んじゃったんだと思います。
一人っ子だったので人間関係が希薄で、母親と密接な関係の母親っ子でした。
変わったことは一杯あっていえないです。
人間世界というものを見切ったという風に詩で書いたことがあるが、根本的な存在、構造はもうわかったよみたいな、どんなに頑張ってもそこは変わらないのではないかみたいな、ところが出てきました。
見切ったことで見切った先に行けるのではないかと思ってます。
人間とはどうにもならないもんだなあとか、言葉とは困ったもんだなあとか、解決のしようがないことが見えてくる。
死も一番大きなものかもしれないが、戦争もその一つですね。
若いころは戦争はどうにかなると思っていたが、戦争は続くだろうなという様な。
18歳で詩を発表してから間もなく70年、愛は一つの道しるべになっていると思います。
若いころよりもはるかに自然は自分にとっていかに大事か、外なる自然というものをずーっと思ってきたが、実際には自分自身が自然なんだということがより強く深く自覚されるようになりました。
自然に逆らわないでいようという様な気持ちも出てくるわけだし。
若いころは詩を書くのが苦痛に思っていた時期があるが、段々楽しくなってきています。
6,7年前ぐらいからですね。
詩を書くのが自分にとって救いになっています。
詩には意味以上の何かがある、詩というものは草花のような存在になるのが理想だと思っています。
存在というものをどこまで感じ取れるかというのが、歳をとってわかってきた感じがします。
言語に対する疑いは詩を書き始めたころから今まで続いていて、外の世界を見る時にもその意識があると思います。
名前よりも存在であると、人間社会内での大事さよりも、名前のない自然、宇宙の中での存在が大事だみたいな、それも言葉で言っているんですが。
読者が喜んでくれるような美しい日本語を書きたいと思っているが、言葉の美しさは難しい。