浅田美代子(女優) ・【わが心の人】樹木希林
樹木希林さんは1943年東京生まれ。
文学座に入り、悠木 千帆(ゆうき ちほ)の芸名でデビュー、60年代から80年代は主にTVで個性を発揮した演技で活躍しました。
2000年代以降は活動中心を映画に移し、味のある女性を演じ高い評価を受けています。
平成30年9月15日亡くなりました、75歳でした。
浅田美代子さんはデビューの時、樹木希林さんと共演し以来公私ともに親しくしてこられました。
入院中は殆ど毎日のように行き、何を話すわけではないのですがそばにいたりとか、という感じでした。
2005年に乳がんになりそのあとに全身にがんがあることを公表しました。
抗がん剤治療はしたくないという事で ピンポイントの放射線治療をしていました。
13年間元気でいらっしゃいました。
病院から自宅に戻った晩に亡くなりました。
私は夜9時ぐらいまではいましたが、夜中に急変して亡くなりました。
自分がどのように命の終わりを迎えるのかきちんと見てほしいという事で、携帯電話で話をしてメッセージを残して、娘さんご夫婦とお孫さん二人の皆さんに囲まて・・・・・。
治療から死ぬ瞬間まで自分で全部決めたのかなあと思いました。
乳がんは死ぬまでの時間を与えてくれるからいいんだよとおっしゃっていました。
亡くなってから映画も上映され、インタビューの記事をまとめた本がベストセラーになっています。
「おごらず、人と比べず面白がって平気にいきればいい」、とよくおっしゃっていました。
映画「万引き家族」の時にも、しんどかったと思うが現場ではしんどさを見せずに演じていました。
私はTVドラマ「時間ですよ」デビューして、で樹木希林さんと共演しました。(1973年 16歳の後半から17歳のころ)
樹木希林さんに金魚のフンみたいにいつもついて歩いていました。
アドリブでいろんなことをやられました。
お芝居ではああしろこうしろとかは言いませんでした、その人の役の気持ちだけを持てばいいといわれました
樹木希林さんは当時20代の後半でしたが、凄く大人に見えました。
1974年「寺内貫太郎一家」ではおばちゃん役をやっていました。
自分で衣装、髪の毛など考えていました。
「樹木希林」という名前
は自分で考えたそうです。(木が集まってゆくと林になる)
コマーシャルでも大活躍をしました。
或る写真のコマーシャルで「美しい人は美しく、そうでない人はそれなりに」(撮れる) 「それなりに」は樹木希林さんが自分で考えた言葉でした。
最初「美しくない人も美しく」でしたが、それは嘘でしょうという事で樹木希林さんが意見を言って「それなりに」という言葉がいいという事になり流行りました。
女優といわれるのは嫌いで役者という言葉が好きでそのように使っていました。
物も使い切るという事をよく言っていました。
私の母が亡くなって衣装を整理しているときに、それをもらってある役で使って写真に撮って送ってくれたりしました。
樹木希林さんのことをみんなが「ばあば」という様になりました。
若いころは演出家にかみついていったりしましたが、段々優しくなっていきました。
作品のことをいつもちゃんと考えていました。
後半は映画にしか出ませんでした。
映画で貰ったトロフィーを飾るのが嫌いでランプにして使ったり、人にあげたりしていました。
身をもって命を終えることを教えてくれていたような気がします。
「死ぬために生きているのではなく、生き切って死がある。
死ぬという実感があるとしっかりと生きられる。」
映画「エリカ 38」(樹木希林がその人生の最後に世に問うた、生涯唯一の企画作品)
主演 浅田美代子
感謝してもしきれないです。
詐欺師の役をやろうとすると、うさん臭くなるから、動物愛護の話をするときのようにやってと言われて、そうかと思って楽になりました。
樹木希林さんはエリカの母親役をやる事になりました。
病のことは微塵も感じさせない存在感でした。
私も母親を2年ぐらい介護をしていました。
母親は離婚しているのですが、自立するタイプの人でした。
50歳を超えても正社員いなりました。
母は68歳の時に病気になってしまいました。
急性リンパ性白血病でした。
治療しなければ1っか月といわれ抗がん剤治療をして2年間頑張ってくれて、その時も樹木希林さんが「お母さんが美代ちゃんに時間を与えてくれたんだよ」と言ってくれました。
「芸能人だからといって偉いということはない、ちやほやされたり、ちょっとでもエラそうな態度をとると、あなた今すぐ仕事をやめなさい。」と母親から厳しく言われました。
樹木希林さんからも同じように言われ、「普通でいることが一番大事だ」とよく言っていました。
樹木希林さんに何とか恩返しをしたいと思うので、一つ一つ来た仕事を丁寧に真面目にやっていけたらと思います。