小林さんは1932年(昭和7年)東京の生まれ。 作曲家として、俳優としても活躍しました。 2021年5月30日亡くなりました。(88歳)
津田さんは1961年生まれ。(60歳) 大学卒業後、CBS・ソニーに入社、 ディレクターとしてX JAPAN(当時はX)の才能を見出す。 僕はクラシック音楽が好きで、YOSHIKIもクラシック音楽の素養があり、作曲に小さなころから興味があって、名曲だけを選んで聞くのが好きなところがあって、名曲にはどこか共通するところがあって作家のピュア性みたいなものが影響していることが判って、YOSHIKIにも名曲を生む才能があることが判ってしまったんです。 そこからエネルギーがどんどん増していたという事があります。 作曲家としても工藤静香さんに楽曲を提供したりしてきました。 中学2年の時に急にピアノが弾きたくなりました。 翌年には自分で作曲して文化祭で弾き語りをしたりしていました。 それから止まらなくなりました。 家にはバッハとヴェートーベン、チャイコフスキーのアルバムがあり聞いていました。 小学校4年の時に音楽の授業でバッハの音楽が流れた時に、心の変化があり、心臓から涙が出ているという、それが衝撃でした。 音楽とは関係ない早稲田大学に入って、2年の時に突然仕事を頼まれて、プロの道に入って行きました。 今は作曲家、プロデューサー、音楽ユニット「I.o.You」として活動。
幼稚園の頃衝撃を受けたのが「キングコング」の主題歌でした。(小林亜星 作曲) 「ひみつのアッコちゃん」で衝撃を受けました。 好きなメロディーと言うと亜星さんのものでした。 10年ぐらい前から亜星さんの凄さを伝えたくなってしまいました。 インタビューが実現しました。(2019年) 時間が2時間程度と言われていて、インタビューが始まりました。 繊細で温かいし、偉ぶらない人でした。 話が弾んで気が付いたら4時間以上になっていました。 その後軽く飲みながら話そうかとお誘いいただきました。 トータルで9時間近く伺いました。
亜星さんは第二次世界大戦のころに少年時代を迎えているので疎開していて、ハーモニカを持って行って疎開先でよく吹いていたという事でした。 慶応大学の医学部に進むが、音楽活動では進駐軍の人たちに向けて演奏していました。 原点がジャズですね。 ジャズを中心にアメリカの音楽1000曲ぐらいを何時でも弾けたという事でした。 曲のクライマックスは高い音が常識ですが、亜星さんの場合は一つの音に意識していたと言っていました。 例えば「北の宿から」高く上がっていく一か所。 自分でも一点に修正するようなこともあります。 心の先生みたいな存在です。
ストイックな方です。 生まれてくるメロディーを生むことができる作曲家の人たちは物凄くピュアなところがある。 亜星さんはピュアなところがメロディーに現れていて、次にこのリズムでここにゆくというのが全部素直なんですね。 だから純粋でまじりっ気が全くない。 長調で素直なメロディーなのに必ず心がキュンと、切なくなるところが何故かあって、音楽家のプロでも謎なんですね。 メロディーに心を託すことができる人なんだと思います。 CMソングを作る時にはその社長さんに会うという事ですが、どういうCM、どういう音楽がいいのか判るという事でした。 その姿勢が僕に響きました。 歌謡曲は少なく、CMとかアニメーションの音楽が多い。 亜星さんの人間性を含めて、名曲を生む芸術家そのものだと思いますが、世の中は「寺内貫太郎」の頑固おじさんと言うほうが強くて、全く僕の印象とは違います。
音楽だけでなく芸術って、時間が経ってから本当に評価されることが多いので、亜星さんはこれから再認識されて再評価されるのではないかと思っています。
作曲って、生まれる時は本当にその前にあるんです。 生まれない時には生まれないんです。 だから無理に生もうと思ってもしょうがないんです。 いつ生まれるか判らない。 音楽ユニット「I.o.You」 井上水晶さんと共に活動。 井上水晶さんは詩を書き、作曲、歌も歌い、ピアノも弾きます。 Webを大事にしたいと思って、Webを中心にしながら、ライブをやったりしています。
*「あなたの情熱を守りたい」 I.o.You