宮川彬良(作曲家・舞台音楽家) ・今こそ音楽を楽しもう!
還暦記念という事で初のエッセーを出しました。 「アキラさんは音楽を楽しむ天才」、これまでの音楽活動を振り返っています。 作曲家を目指したきっかけは、作曲家の父の家に生まれてしまったという事以外に理由は無いですね。 父は宮川泰、『宇宙戦艦ヤマト』『恋のバカンス』などで知られている。 小学校1、2年生で作曲家になりたいと作文に書いています。 当時はまだ父の凄さを理解していませんでした。 小学校3,4年生の時に「ゲバゲバ90分」と言う番組が始まって、放送の翌日に学校に行く時の行列で、みんなが放送の最初と最後にかかる音楽を、1,2回で覚えて歌っているんです。 それにはびっくりしました。 あの曲で父の凄さを知りました。
作曲家になるのは無理だとか、諦めるだとか、広い意味ではなかったです。 メロディーに対するコンプレックスは凄くありました。 20歳代に宝塚歌劇の仕事をして、LPレコードが出来て家で父と一緒に聞いた時に、「本当にお前が書いたのか」と言うんです。 「サウンド、編曲は素晴らしいが、なんだこのメロディーは。」と言われてしまいました。 答えが出るまで何年、何十年とかかりました。 蜷川幸雄さんと出会って、蜷川演劇の芝居の音楽を作った時に、初めて開眼したものがありました。 その時からメロディーが書けるようになりました。(35歳ごろ) その戯曲は寺山修司の原作で「身毒丸」でした。 母親が歌ってくれた子守歌のメロディーを思い出して、メロディーを思い出せばいいんだと、自分の中にもあるんだと思えたら、メロディーが書けるようになっちゃいました。 書いたものを蜷川さんのところに持っていったら「いいよ」と褒められました。
それから5年後に神野美伽さんの歌を作るチャンスに恵まれました。 「手紙」と言う曲を作りましたが、同じアプローチで作りました。 父親から「お前もようやくこの境地に入ったね。」と言われ嬉しかったです。 43歳ごろにヒットして世間に知られるようになって、NHKの芸能部の人が父に聞かせたそうで、そうしたら「なんだこのふざけた曲は」って言ったそうです。 それが「マツケンサンバ2」で鉱脈を当てる前の曲でした。 NHKの芸能部の人が作曲者名を言ったら、父は二の句が継げないで苦笑していたそうです。 「マツケンサンバ2」の歌詞がFAXで送られてきた時に、歌詞を見てすぐに頭のなかで出来上がって歌えてしまいました。 ピアノで確認しながら楽譜を書いてしまいました。
父を越えたいという思いがありましたが、悔しがるのもいいかなと思います。 僕は流行するというような前提条件は、若い時から捨ててしまっているので、スランプと感じることはなかったです。 命のことを掘り下げて考えてゆくと間違いはないですね。 この台本に音楽をつけてくださいと言われると、これは命の物語だと読めるかどうか、そういう風に咀嚼して、取り組めることが出来るかどうか、そうすると常にフレッシュでいられる。 そうするとスランプにはなりようがない。 命の物差しに関わってゆくと、自分の言いたいことがはっきりしてきて、そうなると人の評価は関係ない。 そういう取り組み方をしています。
*「明日の朝 神様がいらっしゃるよ」 作曲:宮川彬良