2022年5月3日火曜日

信友直子(映画監督)          ・認知症の母と支えた父の物語

 信友直子(映画監督)          ・認知症の母と支えた父の物語

4年前に、認知症の母と介護にあたる父の日常を描いた映画「ぼけますから、宜しくお願いします」を制作、自主上映が全国に広がりおよそ20万人が鑑賞し、自ら執筆した本も多くの人に読まれました。   その後母は脳梗塞も発症、2020年夏に亡くなりました。  信友さんは老夫婦の介護の日常や90歳を越えて様々な家事を始めた父の奮闘ぶりなど、新たな発見を映像にまとめて、続編の「ぼけますから、宜しくお願いします、お帰りお母さん」を制作、3月末から順時公開され,合わせて書籍の続編も出版されました。  認知症の介護体験から感じたこと、映画や書籍から伝えたいことなど伺いました。

15年前に乳がんを発症、宣告されたのは45歳の時でした。  仕事が面白くて夜あまり寝る暇もなくやってましたが、身体が悲鳴を上げたという感じです。    癌は死を連想するのでショックで一気に落ち込みました。    カメラでいろんなものを撮るのが趣味でもあり仕事でもありました。   両親も撮っていましたが、撮っているのが普通の状態だったので癌になった時に凄く怖いが、いつもやっていることをやっていれば、その怖さから逃げられるんじゃないかとも思いました。   好奇心が強いので自分が癌になってしまって精神的にも肉体的にもどうなってしまうのか、そういう興味もありました。   その闘病記がテレビで放映されました。

両親は広島県呉市に住んでいますが、毎日のように母とは電話をしていましたが、こんな事があったという事が前に話をしたのと一緒でした。   ちょっとおかしいと思いました。(10年ぐらい前)   病院に検査に行きましたが、事前に認知症に関する知識を本から得ていて、テストでは30点満点中29点を取って、その時にはアルツハイマーだとは言われませんでした。   1年半経って、2回目は知識を得ようとする気力もなく、今日は何月何日だろうと私に聞いてきました。  そこまで進行しているんだと思いました。    相性が合えば進行を遅らせられる薬をいただきました。   父は93歳になっていて耳が遠くて、私が東京を引き払って面倒を見る様かなと思って話したら、父が面倒を見るから東京で仕事をやりなさいと言っていました。   介護サービスについては父が頑として反対しました。   2000年ぐらいから両親の映像を趣味の一環で撮っていました。  母が認知症になったのは2012,3年ぐらいからでした。    呉の地域包括支援センターの方に映像を見てもらったら、心配だから両親に合わせて欲しいと言われて、ちょっとづつ介護の窓口が広がってって行きました。  

フジテレビの番組で放送したら凄く反響があって、映画化しようという話もありどんどん進んでいきました。    母はいろんな自分の葛藤を私に話してくれたので、家族はそれに対してどうやって寄り沿ってあげればいいのか、考えて欲しいと思って、皆さんに映像をお見せしたいと思いました。   タイトルは「ぼけますから、宜しくお願いします」   2017年正月に母が「今年はぼけますから、宜しくお願いします」といったんです。    暴言を吐いたり、暴力をふるう時もありましたが、普段通りの時もあって、振り回されると振り回され損だと思って、学習して行きました。  カメラを持っていたという事は凄く役に立ちました。   引いた眼で見られる。  父はこれも運命だと達観しているような感じでした。   母が何か出来なくなったり、物忘れをするようになると「これは病気じゃけんしょうがない、わしがするけんそれでええじゃろう」といってやっていました。   母の気分が楽になるような声掛けが出来ていたのは凄いなと思いました。  

一作目は20万人以上が観ました。  両親がごく普通の親だったので、自身の両親とか、自身に重ね合わせてみることが出来たのがよかったんじゃないかと思います。   4年経って続編の「ぼけますから、宜しくお願いします、お帰りお母さん」が出来ました。   母が脳梗塞で倒れてからは、母を撮っていると自分でも辛かった。   察してか父がどんどん明るくなって、父を撮っていることで私も気持ちが楽になり、父のことを大切に編集していこうと思いました。  母が脳梗塞で倒れて一度だけ家に帰るシーンがありますが、私も泣きながら撮りましたし、一番印象に残っているシーンです。  父は何とか家に母を連れて帰ったやりたいという思いで凄く頑張りました。  それまでは淡々としていたようですが、母が弱ってからは愛の深さに感動してしまいました。   母が認知症にならなければ、父は家事、介護を身を粉にしてやったりするいい夫なんだという事に私は気が付かなかったと思います。   ラブラブでスキンシップをするのも母の認知症のなせる業ではないかと思ったりします。   

コロナ禍で実家に戻って父と一緒に過ごしていました。  病院で母に会ったら、娘が帰ってきたのなら父も安心だろうと思って、あの時期に母は旅立ったのかなあと思いました。 6月1日に危篤だと言われて父と一緒に行って、「おっかあ わしが来たで」と言ったら元気になって、毎日面会が出来て、私は楽しい想い出話をしたら眼に涙が溜まったりしました。  父は「また あのハンバーグ食べに行こうや」と言ったんです。  ファミレスで高校生のようなデートをしていたんです。  宝物のような2週間を過ごして、それまで30分間の面会でしたが、6月13日にはずーっといてもいいですと言われて、「わしは挨拶はせんよ」と言っていた父が、夜に「おっかあ 今までありがとね わしゃあ あんたが女房でほんとによかったわ いい人生じゃった  ほんまに幸せな人生をありがとね」と言ったんです。  「向こうで又仲良く暮らそうや」と言ったら又母の目に涙が溜まって、凄い瞬間に立ち会ったと思いました。  

介護の先輩から頂いた言葉があって「介護は親が命懸けでしてくれる最後の子育てなんですよ」と言われました。   母は命がけで生きて老いて弱って旅立ってゆくという事を全部見せてくれて、又あの世で会おうという別れ方をして、感謝と言う言葉が一番合うなと思います。