2022年5月4日水曜日

小野和子(民話採訪者)         ・民話に魅かれて半世紀

小野和子(民話採訪者)         ・民話に魅かれて半世紀 

宮城県を中心に50年以上民話を探し求め尋ね歩いてきました。   取りためた録音テープは1000本以上になると言います。   何代にもわたり語り継がれてきた民話は人の息き使いと共に生きた言葉で伝えられてきました。   民話の持つ魅力、生活や暮らしに関わる民話の大切さについて伺います。  

民話採集者と言うのは抵抗感があり、民話採訪者としています。   民話を聞くために歩き始めたのは35歳の時でした。  5人ぐらいの人が集まってきて、それで民話の会と言う名前を名乗りました。    1975年、「宮城民話の会」を立ち上げました。  民話と言う言葉は比較的新しいです。   昭和20年代から30年代にかけて木下順二さんが新潟の昔話をもとにして「夕鶴」を書いて、山本安英さんと言う女優が全国を公演して歩きました。  その時に木下さんは民話劇と言う言葉を使いました。  それが民話と言う言葉が市民権を持った始まりではないかと思います。 そういった話は古くて江戸時代には絵草紙に成ったりしました。  いつ頃からかはわかりません。  

宮城県内を100か所以上回って、同一か所に2,3回多いところでは10回以上も行っています。   最初の頃は電車、バスと歩きで、段々バスの運行がなくなってきて、52歳で運転免許証を取りました。  私は岐阜県生まれですが、結婚して宮城県に移りました。   「文字」などと言う面白い地名があり歩き回りました。 「もじ」ではなく「もんじ」だと言われました。   話はよく覚えていないけど歌ならわかると言ってよく歌われていたという「数え歌」など歌ってもらいました。   話を聞けない時も沢山ありましたが、人々に触れることの嬉しさを肌で感じてきて、それが支えになって今日までやってきたんだと思います。   

昭和9年生まれで、小学校1年生の時に第二次世界大戦がはじまり、小学校5年生の時に戦争が終わりました。  当時、アメリカとか、フランスとかの童話を読むと非国民と言われました。  先生がそう言った本を集めて燃やしたこともありました。  戦争が終わっていろんなものを読みました。  中学でも児童文学を読みました。   大学では卒業論文では小川未明という日本の誇るべき童話作家で美しい童話をたくさん書きましたので、小川未明について書きました。   仙台に民話を語る人がいて紹介されて、聞きに行きました。地元の言葉で良く判らないこともあり、「犬の恩返し」と言う話を原稿に書いて送ってくれました。  犬の話はよく出て来ます。  桃太郎の話では桃が流れてきますが、白い小箱が流れてきたという話です。  箱に対する思想は実は非常に古いんです。  民話は単なる子供だましのおとぎ話という側面もとっても大切ですが、遠い先祖の伝えてきた話であるとも言えます。  

「みやぎ民話の学校」と言うところでは、東日本大震災の時の震災、大津波を語り継ぐために「声なきものの声を聴き、形なきものの形を刻む」と言うテーマで、お話の会をやっています。  私たちは昔話を聞いてきて出来るだけ文字にして広く世のなかの人に知って貰おうと努力してきましたが、文字で読むのではなくて耳で聞いて欲しいわけなんです。   民話を語ってくれるおじいさんやおばあさんが私の周りにはたくさんいるので、多くの人に聞いて欲しいと思って「みやぎ民話の学校」を開きました。  震災の年の2011年の夏にも民話の学校を開く予定でいましたが、語りの方がみんな津波に会って被害に遭って、体験を語っていただくことにしようという事になり、全国に呼び掛けました。   200人ぐらいが集まり、6人に語っていただきました。   貴重な歴史を残しているんだと思います。  本当は口から口に伝わって行くところに意味があるんですね。  文字にすると死んでしまうところもあるものですから、文字を言葉に置き換えて言ってくださるからが増えるといいなと思っています。  語り継がれた話には本当に深い意味などが得々と流れていると思いますので、そういうところに光をあてていきたいなあと思いますし、伝承してゆく何かを作っていけたらいいなと思っています。