春風亭小朝(落語家) ・横丁の若様と呼ばれて 後編
俳優、楽器を使う、指揮もする、作家としての仕事もする。 2008年「篤姫」2014年の「軍師勘兵衛」 2020年「麒麟がくる」で役をこなす。 鬼俳犯科帳に出演しましたが、何故鬼平犯科帳はしっとりした感じになるのかなと思ったら、スタッフが余計な口を一切きかないんです。 役者の気持ちが削がれないんです。 長火鉢、煙草盆が置いてあるが、芝居のシーンでは使わないが、全部使える様になっている。 これは凄いことだと思いました。 鬼平がただ歩いて来る場面があるが、数分前に霧を吹くんです。 道とか柳の木に霧が振りかけられ、画面に映った時のしっとり感が違うんです。 演出を含めてお芝居は勉強になります。
芝居との相乗効果で落語にとってもいい効果が出て来ます。 但し、落語と芝居の同時進行は辞めた方がいいと思います。 「軍師勘兵衛」の時に明智光秀をやらせてもらいましたが、明智光秀が最後に竹で刺されて死ぬシーンがありますが、そのシーンを撮る前が落語会だったんです。 光秀のことが気になってしょうがなくて、どんなふうに落語をしゃべったのか判らなかった。 同じ日にドラマと落語はやってはいけないと思いました。
1955年(昭和30年)生まれ、67歳。 両親が落語が好きで、寄席に連れて行ってくれて、僕が寄席に行くと泣かない子だったらしいんです。 小学校4年生の時に上野の鈴本に行って、亡くなった柳家 三亀松師匠が色っぽい都都逸をやっていたらしいんです。 下ネタなので大人が変な笑い方をするんで、子供心に聞いたことのない笑い声なので、初めてこれは大人の世界なんだと認識しました。 面白いと思いました。 一人で行くのは映画館は絶対ダメでしたが、寄席は寄席のプログラムさえ持ってくれば行ってもよかったんです。 一人でも行くようになりました。 ヴァイオリンは当時ずーっとやっていました。 母は落研だったようです。 母は的確な批評をしていました。 中学1年生の時に「しろうと寄席」では5週にわたり勝ち抜き、チャンピオンの座を獲得しました。 桂文楽師匠から褒められて、落語家に成ろうと思って、3年生の時に5代目春風亭柳朝に入門しようと思って行ったら最低高校ぐらい出ていないと駄目だと言われました。 昼間は東京電機大学高等学校に通いながら夜は寄席と言うあまりないパターンでした。 昼間は野球とかが話題で夜は猥談したりの世界で変なバランスでした。
小学校4年の時に末廣亭で落語を聞いていたら、談志師匠が「芝濱」をやっていて、聞き入って持っていたアイスクリームが溶けてなくなってしまっていて、落語ってすごいと思いました。 最初奇術が好きでしたが、タネがあるのでつまらなくなり、漫才に入れ込みましたが、落語に出会ったら、そこからですね。 最初桂文楽師匠に手紙を出しましたが断られて、春風亭柳朝師匠の面白さと、着ている着物が凄いのと、優しそうだという事で最有力候補になり弟子入りすることになりました。 (1970年に入門) 1976年に二つ目になる。 通常3年でなるが、当時は凄く弟子が詰まっていた。 1980年に25歳で真打昇進、36人抜きでした。 妬みと言うようなことはなくて、むしろなった後、どういう行動をとるのかを観察していて、そっちの目の方が怖いです。 先輩で人気番組に出て有名になって、或る時師匠と一緒に歩いていたら、その先輩と出会って、僕が挨拶したら、師匠に対しての挨拶がほんの軽いもので、師匠は「しょうがないなあ」と言っていましたが、それがすべてですね。
師匠から言われたのは「修業しているうちに好きな先輩が出来てくると、その先輩になつくようになるがそれはいい。 その人が何かでこけた時にそこから離れるなよ。 その先輩がどうなろうがその先輩についていきなさい。」と言われました。 今でも守っていますが、それをやるともの凄く評判が悪くなりますね。 いいんです共倒れすれば、その人が好きなんだから。
1994年(28年前)「ふるさと愉快亭 小朝が参りました」で司会を担当。 画期的でNHKで個人の名前が使われた事はないんです。 100歳の方、140人にお目にかかっています。 2003年に作った「六人の会」、落語会が停滞していて活性化しなければいけないという事と、東西があまり仲良くなかったので作ることにしました。 (笑福亭鶴瓶 、9代目林家正蔵、春風亭昇太、立川志の輔、柳家花緑、春風亭小朝) その下の世代も頑張ってきてよくなってきたと思います。 今年の末には皆さんがアッと驚くようなことをやらせていただきたいと思っています、画期的です。