川名紀美(フリージャーナリスト) ・友達近所暮らし
退職後の高齢期をどこでどんなように暮らしたいと思いますか。 川名さんは同じ時代を生きてきた友達同士で近所に住み合い、交流を通して互いを見守り、支え合いながら暮らしてゆこうと言う「友達近所暮らし」を始めました。 川名さんたちは女性の就労が厳しい中で、みな自分なりの職業人生を切り開いてきた世代です。 個人として尊重し合い、見守りはするが介護には立ち入らないという友人関係で近所暮らしを始めて14年になります。 日常を仲間と楽しく暮らす工夫と人生の味わいを聞きました。
仲間は5人います。 4人は普通のマンションの部屋を購入して近所暮らしをしています。もともとの友達ではなくて一緒に暮らしながら友達になって行っているというような関係です。 もともと3人の仲良しがいて、一緒に住めたらいいねと言う話をしていて、もう少し仲間を集めようという事で当初7人集まりました。 高齢期を如何に豊かに楽しく過ごすかという思いでした。 当時は女性の就職は難しくて、何とか入れたというような状況でした。 手帳に幾つか予定があるという事は楽しいことだと思います。 実は私たちは予定を作っているんです。 5人とも本を読むのが大好きなので読書会をしています。 課題本を順番に決めて読んで合評するという事をして、その後で食事会をします。 音楽系のこと、書道など1週間に2回は仲間内で必ず顔を合わせるようにしています。 月に1回ずつ(年に11回)ですが、土曜サロンと言って、近所暮らしを始めた翌年の2009年から近隣の方たちとやっていて117回になります。 近隣の方たちから情報を貰って、窯元の方、お能の女性のシテ方とか紹介していただき、講師をしていただき参加費はいただきますが、続いています。 土曜サロン便りという事でA4一枚に、参加する方の趣味とか、嬉しかったこととかの便りを発信しています。
もともと3人の仲良しがいて、一緒に住めたらいいねと言う話をしていて、私も声を掛けられました。 1995年、私が記者をしていた40代に6400人が亡くなる阪神淡路大震災があり、たまたま東京に出張していたため、圧死せずに済みました。 直ぐ取材を始めましたが、ご近所と親しく付き合いをしている方は割と早くがれきの下から助け出されるという例が沢山ありました。 親しく付き合っていると寝ている場所の特定が早くて助かったという例がいくつもありました。 自分を振り返ってみると仕事一辺倒で人間関係の作り方を深く反省しました。 そんななか思いがけず2004年に声を掛けていただきました。働き続けて今は一人という事が共通でした。 その後毎月一回集まって知り合う期間を作りました。 独立した住まいで近所で暮らすという事では全員が一致しました。
メールでの連絡、土曜サロンをはじめ、1週間に一回は顔を合わせる機会をという事と、それ以外は自由に生活して、緊急連絡先をお互いが交換して持っているという事にしています。 スタートは60代、70代でしたが、今は70,80代になって体調の変化があります。 叔母が近所の有料老人ホームに入り、面会に行っていたが、仲間の一人が入院して手術を受ける事になり、気軽に保証人を引き受けました。 叔母はすい臓がんで、体調が急変したという電話があったが、仲間の手術の結果説明を聞いてから、向かおうと思っっていたら、再度電話があって「たった今息を引き取られました。」という事で叔母の臨終には間に合いませんでした。 例え近所暮らしをしても介護はしないという事でしたが、ほかにも問題が出てくる可能性はあります。 そういったことに対して知り合いの弁護士さんを招いて勉強会をしました。 遺体の引き取り、住まいの売却、お金の行く先などもあり、生きている間に助けてもらう任意後見と、死後事務委任、お金の行く先を決める遺言は必須だなと思います。 弁護士さんと契約をしました。
認知機能が衰えた人が一人いますが、これも近所暮らしの中だから気づいたことだと思います。 人と関わって生きるという事はめんどくさいし、傷つけたり傷つけられたりしますが、人と関わって生きるという事は人生の豊かさの一つなんじゃないかと思います。 これからも選んだ道を歩いていきたいと思います。 逃げそうになると塔和子さんの「胸の泉に」という詩集を読みます。