天童よしみ(歌手) ・【師匠を語る】永遠の憧れの人 美空ひばり
今年で歌手生活50周年、長かったですが、皆さんに感謝の気持ちでいっぱいです。 美空ひばりさんは父と一緒に大きな写真に写っていて家に飾ってあったので、親戚のおばさんと思っていました。
美空ひばりさんは1937年神奈川県に生まれます。 「河童ブギウギ」でレコードデビューし、それ以降「悲しき口笛」、「東京キッド」「りんご追分」「柔」「悲しい酒」「愛燦燦」「川の流れのように」など数多くのヒット曲を歌って、日本の歌謡界に君臨続けます。 1989年に52歳で亡くなってから今年で33年になりますが、メモリアルコンサートや最新のAI技術で蘇る試みなど様々な形で演歌の女王美空ひばりさんはファンの皆さんの心の中に今も生き続けています。
私は和歌山県で生まれですが、映画の撮影でひばりさんが白浜に訪れましたが、父は新聞社の仕事のお手伝いをしていて、ひばりさんにインタビューする係になり、時間がないなかひばりさんとツーショットとなりました。 大阪でひばりさんが来ていて、子役を募集しているという事で、8歳の時に父が応募しました。 オーディションで「花笠道中」を歌いました。 選ばれて、稽古場で母と待っていると美空ひばりさんと会う事が出来ました。 ひばりさんの帯を引っ張る役で、思い切り引っ張ったらひばりさんが地面に転んでしまいました。 「力強いわね。 本番もその調子でやりなさいよ。 ・・・帯がほどけらた踊りのように回ってゆくから、貴方は回らなくていいのよ。」といってその言葉にどれだけ助けられたか、子供心に本当にこの人は凄い人なんだと思いました。
その時の撮影にもお母さんの加藤喜美枝さんは一緒に見守って居ました。 アドバイスなどしていました。 その撮影に1か月間付き合わせてもらいました。 自分も歌手になりたいと思いました。 舞台を降りると普通の女性で、「さよなら」とは言わずに「明日も頑張るよ。」と言う言葉を言っていたのが印象的でした。 ひばりさんに声を掛けられ楽屋に呼ばれてチョコレートを貰いました。 7歳の時に「ひばりの渡り鳥だよ」を歌って父が拍手してくれたのが印象的でした。 それからいろんな歌を覚えるようになりました。 ひばりさんが「東京キッド」などを大人になって歌う時も、子供のころの声になって歌う事が出来るのが凄いですね。 詩の解釈は父がしてくれました。 父はひばりさんとの受け答えのなかで、感情が芽生えて、よしみもなるなら歌手にさせたいと強く思っていたようです。
テレビのオーディション番組に出場して最年少でチャンピオンになった天童さんは15歳でプロとしてデビューします。
21歳の時に、コンサートでひばりさんが来られるという事を聞いて、ショーを見て終わった後に楽屋に行きました。 そのころ私は大阪に戻ろうか、それとも東京で続けようかという思いの分かれ道にいました。 「あんた、若いからとにかくいろんなことを経験するのよ。 それが全部生かされるから。」と言われて、私のことを覚えてくれて感動とうれしさでした。 私が「あばれ玄海」と言う曲を発売した時に、ひばりさんがラジオで聞いてくださっていて、担当の方から「この歌は何故か私の昔を思い出させるような声になるのね。 これよしみちゃんでしょ」と又私の話をしていたので、一度お目にかかりたいと思っていました。 なかなかお会いするチャンスがありませんでした。
ひばりさんはずーっといい歌を歌ってきました。 いい歌と言うのは時代に合った歌ですね。 人の心を動かせる歌を歌ってこられました。 ひばりさんにライバルはいなかったと思います。 自分の世界を築き上げて、そばにも行けないぐらい引き離された状態の中で歌われていたと私は思います。
ファンもひばりさんのファンが圧倒的に多いです。 NHKの「AIで蘇る美緒空ひばり」のプロジェクトに参加しました。 「新曲 あれから」 歌詞も素敵でした。 ひばりさんの歌を歌う時には、いつもひばりさんのことを思います。 ひばりさんの歌を歌う時にはあまり自分を出さないようにしています。 8歳の時にひばりさんと直接お会いして舞台を見た時の感動とかが大影響しています。 これが天童よしみを支えてきてくれた宝物です。
美空ひばりさんへの天童よしみさんの手紙
「天国の美空ひばりさんへ あれは私が8歳の時でした。 チョコレート楽屋にあるよ。 いらっしゃいね。 ・・・幼心にひばりさんが大好きになりました。 ・・・雲の上の存在の方なのに身近に感ずるようになりました。 ・・・戦後からこの時代までみんなの心を明るくしてきたのはひばりさんです。 私もどんなことにも負けない強さで歌い続けたいと思っています。 ひばりさん、本当にありがとうございました。」
新曲「あなたに咲いた花だから」