藤井敏男(農学博士) ・アジサイの花を母に捧ぐ
長年農業試験場で品種改良に取り組んできた藤井さんは、紫陽花の花に魅せられて58歳で紫陽花研究者として国内初の農学博士になりました。 その後栃木県小山市を拠点に酸性の土で栽培しても紅色に咲く紫陽花の品種を開発したり、甘茶の原料となる甘茶紫陽花の収量?登録に成功したり紫陽花の第一人者として研究と普及に努めています。 品種改良への尽きぬ情熱や紫陽花に込めた亡き母への想いについて伺います。
私が作り出したのはどんな土でも最終的に赤になるという品種です。 ブルーに見えるものも赤に変わってゆくんです。 人気なのは白寿紅(はくじゅっこう)と言う品種で最初は純白から土に関わらず鮮赤色という紅ショウガのような色になります。 白寿紅は10年前に出来上がっていましたが、名前をどうするかと思っていまして白と紅は決まっていたがしっくりくるものがなくて、7年前に大病を患ってその先生から「寿」がいいのではないかと言われて決めました。 母はとっても私を可愛がってくれまして、女手一つで3人の子供を育てました。 三途の川の向こうから迎えに来た時に、この花を見せたいと思っていて、母が「いい花を作ったね」といってくださるのではないかと思っています。 母にはいつも敬語を使いたいと思っています。 いつまでも元気でいて欲しいという思いで白寿紅としました。
大学を卒業してから栃木県の農業試験場でビール麦の品種改良研究をしていました。 中学校の時に鳩と出会ってのめり込んでしまって、成績が悪くなったが、先生から一つ事にのめり込むことは良いことだと言われて、それからは絶好調でした。 10年間鳩にのめり込み、育種に生きるという事になりました。 栃木県はビール麦では日本一でしたが、土の中のウイルス病で甚大な被害を受けていました。 薬はなく対策は品種改良しかなく16年かかって完成して一気に被害がなくなりました。 その後水稲を3年費やし19年携わりました。 42歳の時に試験場から出した稲の種が間違っていたという事故があり、担当になり県庁に呼び出されて疲れて、県立美術館にいったら田中一村展をやっていて、世の中にはこんな人もいるんだという事で、辞表を出しました。
その後花の販売をやっていて、花弁が白い紫陽花がヒットして、あれを扱えと先輩から言われて、それが紫陽花との縁の始まりでした。 45歳の時に栃木花センターが出来て、紫陽花展をやらないかと言われて受けました。 世界の珍しい紫陽花展と言う触れ込みでやろうといいことで、日本でただ一人しかない練馬の山本さんのところにあるかしわ葉紫陽花を借りようとしたら、叱られました。 でも貸してもらって展示したら大盛況でした。 山本先生とは4回お会いして私の人生が決まりました。 紫陽花は日本では忌み嫌われた花で、花弁が4枚で死につながり、場所が変わると色が変わるので、忠義忠節の心がない、咲き終わっても散らずに固まっていて、生に執着する花という事でした。 研究者がいないのはそのせいだと言われました。 日本が紫陽花の原産国でもあるが、研究者もいない。 品種改良は全てヨーロッパに先行された。 私は紫陽花の研究に携わりたいと思いました。
甘茶は紫陽花から作ります。 30年前に京都薬科大学の、甘茶エキスには歯周病菌に特異的な抗菌成分が入っているという資料を見て、これを増やそうと思いました。 ビール麦研究の延長線上の私の仕事だと思いました。 これが藤井甘茶1号という私が作った甘茶です。 フィロズルチンという成分でノンカロリーです。 砂糖の400倍甘いと言われていますが、それが数%入っています。
紫陽花には3つの種類があり、①浜紫陽花(伊豆半島、三宅島あたり) ②山紫陽花(関東から九州の山中)③蝦夷紫陽花(新潟から北海道) 日本の庭で真っ赤に咲くものを作りたいと思いました。 大きな道路脇でその種を見つけました。 それを品種改良していきましたが、苦労しました。 枝垂れてしまうのが欠点で16年目に或る時に支えを辞めてしまったら出来ました。 歌は大好きで「白寿紅」の歌を作詞作曲しました。
母は84歳で亡くなりましたが、70歳から川柳、短歌、俳句を老人大学で学びました。 「あと五分だけ寝せてねと若き日の働きずくめの母のぬくもり」 藤井敏男
新たな紫陽花の見せ方をやってみたいです。 ヨーロッパに行ってみたいと思っています、オランダで10年に一回開かれる博覧会がり8月25日なので参加すべく冷蔵庫を使って咲く時期を合わせようとしています。 私は一見山あり谷ありの人生だったように思うかもしれないが、私自身は何一つ変わっていないです。 母の教え通り真っすぐに正直に生きる、赤貧のなかで育ちましたが、周りはなんかの原因で変わっていきましたが、それに合わせることができない、様々な苦労がありましたが、様々な幸運に恵まれました。