加賀乙彦(作家・精神科医) ・芭蕉に学ぶ、美しい日本語と人生行路
加賀さんは東京生まれ91歳、東京大学医学部卒業、その後東京拘置所医務技官を務めた後フランスに留学、帰国後大学で精神科として勤務するかたわら小説を書きました。 1967年に刊行した「フランドルの冬」が翌年芸術選奨新人賞を受賞して以来、「帰らざる夏」「宣告」「永遠の都」などの長編小説を世に出し続けました。 その加賀さんが今年の1月書下ろしのエッセー「私の芭蕉」を刊行しまた。 長編作家の加賀さんと短詩文学俳句の松尾芭蕉との組み合わせの意外性が注目されました。 加賀さんは芭蕉は美しい日本語の世界に遊ぶ楽しみを与えてくれるといいます。 芭蕉の精神世界が中国春秋時代の思想家荘子の哲学と深いつながりがあると指摘しています。
俳人の本の中で芭蕉論は抜きんでて数が多い、蕪村、一茶をあわせても芭蕉のほうが多い。 松尾芭蕉に関心を持つようになりこの10年ぐらいの間読書の目標になっています。
80歳からなのでいろんな病気にかかりながらやってきました。
蕪村、一茶は芭蕉にはかなわないですね。 私は長編作家ですが、小さい沢山の作品が出てくるものは俳句でこの10年初めて経験しました。 文体が凄く上品です。「静かさや岩にしみいる蝉の声」
きちんと読みたいと思うようになったのが5年前です。 2年前に芭蕉論の大きい本に夢中になりました。
芭蕉の俳句の文体が凄くたくさんあって、次から次に面白い発想で俳句が出てきます。 芭蕉に導かれて新しい世界に行くという感じにもなります。
芭蕉は何度も作り直します。 芭蕉の推敲には頭が下がります。
「静かさや岩にしみいる蝉の声」はすぐにできたと思いますが、最初は「山寺や石に染みつく蝉の声」、その後「寂しさの岩に染みこむ蝉の声」 そもそも蝉の声は静かなものではない。
それからどういうふうにして「静かさや岩にしみいる蝉の声」になったのか。
騒がしく蝉は鳴くが、ああこれでやっと誰か一人死んだのかなあ、たいしたものだなあ、威厳のある表現の仕方、自分のそばに大きな岩があってその岩が蝉が死ぬためにどんどん声を出して泣いているんだなあと、世の中がひっくり返って見えるんです。 耳を澄ましている人間にとっては不思議な出来事です。
芭蕉は51歳で亡くなりましたが、江戸で多くの弟子たちを自由自在にしていた。(30代のやり方) 36歳になったころから自分の生き方が間違っているというようになってくる。
「櫓の声波を打って腸(はらわた)凍る夜や涙」
櫓の声や腸氷る夜ハなミだ櫓の声にはらわた氷るよやなみだ などの句形がる
「この深川の草庵は水辺に近いので、寒夜、きしる櫓の音が
波音のまにまに枕に近く聞こえてくる。じっと耳を澄まして
いると、腸も氷るような凄涼な思いがしてきて、いつしか
涙が流れているのであった」
古典の知識を取り込んでいる。 芭蕉の一番面白い俳句の一つです。
ぽくぽく という擬音を取り入れている。 私にとっては大変な発見でした。
「馬ぽくぽく 我を絵に見る夏野かな」
箱根に富士山を見に行くが霧が出てきて富士山が見えないが、富士の形にはなって流れてゆく、これは一番面白いぞという事を俳句で読む。
「雲霧の暫時百景尽くしけり」
「霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き」 見えない富士を楽しんでいる。
「奥の細道」、「野ざらし紀行」 芭蕉を旅に駆り立てたものはなかなか難しい。
「行く春や鳥啼き魚の眼は涙」 動物たちも私の旅を寂しがっているだろう。
人生で一番いいのはいつも旅をしている人だ。 旅をすると自分の知らないことが次々に出てくる。 出てきたものは自分のその後の人生において、一番重要なものになることが多い、だから皆さん旅をしよう。 と書いている。
その最後に「草の戸も住み替わる代ぞ雛の家」
亡くなる前の年に「幻住庵の記」を示した。 文章の綾があって面白い。
「石山の奥、岩間のうしろに山あり、国分山といふ」の書き出しで知られる。
海、山、花、鳥などと自分の生活とを思い出して懐かしく思いだしている。
知人の庵「幻住庵」に3,4か月寝泊まりして書いている。
自分で自分の過去をこれはよかったといいなおすような文章を書き、もうすぐ自分は死ぬと分かっているのに大阪地方を旅して大阪で亡くなる。
冒険もきちんとやるのも芭蕉の術ですね。
「この道や行く人なしに秋の暮れ」
「秋深き隣は何をする人ぞ」
「旅に病んで夢は枯野を駆け廻る」 口述筆記でした。
「野ざらしを心に風のしむ身かな」
「蓑虫の音を聞き来よ草の庵」
短い文章によって芭蕉は一本立ちの面白さを持っている。 芭蕉の先生として荘子の一生が示されてもいる。
大変素晴らしい日本の文学のたまものだと思っています。
「蛤のふたみにわかれゆく秋ぞ」