松岡和子(翻訳家・演劇評論家) ・【私の人生手帖(てちょう)】
松岡さんは昭和17年生まれ、東京大学大学院修士課程修了後、大学教授を務める傍ら、翻訳家、演劇評論家として活躍しました。 松岡さんがシェークスピアの翻訳を始めたのが平成5年(1993年)で、平成10年から彩の国埼玉劇場で蜷川幸雄さん演出による、シェークスピアの全作品の舞台化を目指す壮大なプロジェクトがスタートして、翻訳を松岡さんが手掛けました。 書かれてから400年以上たった今も世界最高の劇作家と言われ、その作品が世界中で上演され続けていますが、そのシェークスピアの言葉に介護や看護など、人生の岐路で支えられたとおっしゃっています。 翻訳の醍醐味、作品の神髄を伺うと共にシェークスピアと共に歩んだ人生について伺います。
シェークスピアの全37作作品の完訳が年内に完成予定。 一番最後になったのが、4幕に入ったところです。(5幕で終了) 翻訳を始めたのは「夏の夜の夢」、でほとんど同時に「間違いの喜劇」が来て上演が「間違いの喜劇」が先になりました。 彩の国埼玉劇場でシェークスピアの全作品を蜷川さんの監修の元にやりましょうという企画が上がって、声がかかって1998年から始まりました。
それ以来27年になりました。 コロナには絶対避けようと思いました。
シェークスピアの時代もヨーロッパが全部ペスト禍に落ちていった。 「夏の夜の夢」、「ロミオとジュリエット」はペストの後かその間に書き始められただろうと言われています。
シェークスピアは詩を書いて貴族に献呈したという事はわかっています。
「ロミオとジュリエット」の内容にも疫病が絡んでいる。 ロンドンの状況が反映されている。
当時は検閲も厳しく、逃れるためのしたたかさもあり。人間観察が何よりですし、ひとりひとりを生かす力も凄いです。 独特の現代性をシェークスピアは持っている。
父が満州国の管理をしていたので私と妹は満州で生まれて、弟は引き上げの途中で生まれましたが、その時点で父は旧ソ連に抑留されて11年間いました。 父が生きているのが判ったのが私が中学生の時でした。
親戚の家になどに厄介になり、父が家を持っていたのでそこにようやく入りました。
貧乏だったので叔父から本を買ってもいいよと言われて本を読んだことがありました。
子供のためのギリシャ神話があり何度読んだかわかりません。
シェークスピアとの出会いは東京女子大学英文科を卒業するまでに読んでおいたほうがいいと思って、「ハムレット」を読むシェークスピア研究会があり、そこでの出会いでしたが、そこで恥ずかしい思いをしてそこを出てしまいました。
翌年「夏の夜の夢」の劇をやるけれど、やってもらいたいと先輩から言われて、ボトムの役ということでしたが、内容も知らなかったし、ボトムも知らなかったので、「夏の夜の夢」の翻訳を読みました。
ボトムは職人仲間の出たがり屋で、ロバに頭だけ変えられてしまう3枚目中の3枚目だった。
結構受けてお芝居は楽しいと思いました。 今まで使用していた舞台装置を捨てるという事で、どこにもなくなってしまうという事が何か好きに思えました。
一般の翻訳と違って、戯曲の翻訳は原本を読んで、日本語にして、演出家、俳優に渡し、それを彼らが解釈する、実際に舞台で演じて生きた人間の言葉となって目と耳を通して観客に届く、そういうプロセスをとるというのが、戯曲を訳すことの最終的な醍醐味です。
一人一人のキャラクターの気持ちになって訳す、判らないときには違うレベル(作家の気持ちとか)から見るという事をやって解明してゆくことが面白いと思います。
このごろ注釈に命を懸けています。 小田島雄志さんの翻訳で育っているので、なんで新しい翻訳が必要なのか考えたりするが、私なりに読者への解読感のためにやり始めました。
夫の食道がんが判って、ハムレットのなかでの「覚悟がすべてだ」という言葉が私のおまじないになりました。 「雀一羽落ちるのにも天の摂理が働いている。 今来るなら後には来ない。後で来ないなら今来るだろう。 今来なくてもいずれは来る。 覚悟がすべてだ。」というんです。 主語がないところが奥深い。
夫の状態が全部が判らない状態だった時に、「覚悟がすべてだ。」これが出てきました。 死がいずれ来るが今覚悟してれば、いつ死んだって同じではないかと思いましたが。 去年の8月に夫は亡くなりました。
夫の介護の時間から離れるとシェークスピアの翻訳の世界にぱっと変わるのでむしろそれがよかったと思います。 在宅になっても看病をずーとしてきました。
10数年前から夫と一緒に乗馬を始めて、釧路にいって山を登ったり下りたりして本当に楽しみました。 翻訳が終わったら落馬してもいいぐらい乗りたいと思っています。