2020年10月8日木曜日

久保 瞳(視覚障碍者ランナー)     ・マラソンで得た第二の人生

 久保 瞳(視覚障碍者ランナー)     ・マラソンで得た第二の人生

岡山県にお住いの久保さんは今年74歳、30歳半ばのころ医師から50歳までに失明すると告げられ48歳で目が見えなくなりました。 病名は網膜色素変性症でした。  マラソンで得た第二の人生、久保さんに伺いました。

月、水、金と土(月に2回)、一ヵ月に200kmぐらい走っています。  紐を結んで手を取り合いながら走っています。

岡山市総合運動公園は人見絹江さん、有森さんの像がありオリンピックでメダルを取った人です。

50歳の時にマラソンブームがあり、新緑の風を感じて走れたらどんなに気持ちいいだろうと思ったのがきっかけでしたが、伴奏者がいなくて10年が過ぎて、60歳の時に20歳若い私と同じ病気の彼女が電話をくれました。

紐と言葉で段差があるとかカーブがあるとか説明を受けながら走るので安心できます。

ラジオ深夜便の放送で沖縄の男性で両足義足の人がホノルルフルマラソンを完走したという対談を聞いてしまって、私は目は見えないが自分の足があるのでフルマラソンを走ってみたいと衝動にかられました。  一度でいいからホノルルに行きたいと言ったらリーダーが行こうと言ってくれました。

練習をして、伴奏リーダーが大腸がんになってその年のホノルルマラソンは行けなくなりました。  ホノルルマラソンは時間無制限ですが、ゆるい制限時間で参加できる大会が日本にもあるという事で、63歳の時に宮崎の世界青島太平洋の大会にエントリーしました。

走る時に伴奏リーダーさんに2つのお願いをしました。 一つはゆっくりでもいいから歩くことなくゴールがしたい、5時間が1秒でも切れたらという事でした。 制限時間が6時間30分でした。  結果は4時間44分11秒でした。 うれしくて周りに報告しました。

65歳で吉備路マラソン、第一回神戸マラソン、ホノルルマラソン、そのほか沢山のマラソンに参加して走りました。

72歳の時にはオーストラリアのゴールドコーストのマラソンに行きました。  

岡山の盲学校の元教頭の竹内先生がモンゴルに盲学校を作って、その後キルギス共和国に視覚障害者の訓練施設を作って、それを見届けるために行くのでという事を先生から電話があり、シルクロードマラソンもあるという事で走りたいと思って一緒にいきました。  6000m級の山々が連なっていてまだ貧しい国でした。 走るところは1600mの高地でした。    フルマラソンは100名ぐらいの参加で女性は10人で70歳は私一人でした。  風景などの説明があり想像しながら走りました。

15km付近でお腹具合あが悪くなりトイレに行きたかったが、身振り手振りである男性に伝えて畑のなかのトイレに連れて行ってくれました。  お礼を言ったら大きなチューリップをくれました。 言葉は全く通じませんでした。  チューリップの色は赤でした。 

制限時間は7時間でしたが、5分前にゴールすることができました。  おばあちゃんがゴールしたという事で大変な歓迎を受けました。

NHKだったと思いますが、「世界ののど自慢」がありキルギスで優勝したグルムさんという女性が日本に来て「涙そうそう」を歌って、岡山でもコンサートという事になりました。グルムさんを含めて通訳の方とか4人が我が家に一泊泊まっていただくことになりました。  グルムさんは全盲の方です。

30代半ばで見えない部分がある言うことに医者に行きましたら、網膜色素変性症という事でした。  50歳までに失明すると告げられとてもショックでした。

私は一般臨床検査師をとりました。42歳で段々見えなくなる中で姑さんの介護をしました。

最後は姑さんは入院しましたが、手をさすっていたらしばらく握って離さなかったんで、私の介護に納得してくれているんだなとほっとしました。 母の介護もしました。

そのうち天国で母に逢えたら見えなくなったけど大勢の人に支えられて結構楽しい人生だったよと、報告出来るようにこれからも生きていきたいと思っています。

夢は80歳を目標にフルマラソンを走り続けたらいいと思っています。 自分から笑顔を発信しながら生きていけたらいいと思っています。