2012年4月21日土曜日

市田ひろみ(服飾評論家 79歳)   ・凛として生きる

 市田ひろみ(服飾評論家   79歳)        凛として生きる  
市田さんは(1932年7月10日 - )は、日本の服飾評論家、エッセイスト、女優、タレント。 いち早く全国きもの教室を開いて、着物文化の普及に努め平成13年その着付け技術が認められ現代の名工に選ばれました
女優でも活躍、TVでのお茶の叔母さんでも親しまれました。
  
世界を訪ねて民族衣装を収集 膨大なコレクションを持っています。
ブラウス、スカート、ベスト、エプロンで1セットで450セットあります。 
最初から1セットでコレクションすることにきめていたので苦労しました。
1968年に海外に最初に行きました。  世界的に手の込んだ衣装はなくなってきている
黒いビロードはフランスの地方の衣装、模様は伝統的な模様で教会でミサが行われる間は全員がこの衣装を着て、町をパレードしてそこでフォークダンスをします。 
同じ形の服なんですがあの人のは手が込んでいるとか、一人のお嬢さんに分けてもらえないかと言ったら、お婆さんからお母さんへ、お母さんから私に伝わった物だから決して渡すことはできないと言われました。  
これはアフガニスタンの衣装で1972年に行きました。 綺麗だったので購入しました。
しかし京都大学の吉田光邦先生にご指導を受けて、まずコレクションをするんだったら 
誰がどこで何のためにこれを付けていたのかというのが揃わないといけない、単に綺麗だけではいけないと言われました。

ベールが無かったがジュネーブとのやり取りで衣装と一致して、このアフガニスタンの衣装も30年して日の目を見るようになりました。(刺繍など素敵だが普段着だったそうです。)
イエメンの黒の地に細かい刺繍の衣装、貧しい国だが婚礼服、5000円ぐらいだがアクセサリーは銀と珊瑚、刺繍がすごい。
1968年に西陣の織り屋さんからヨーロッパに行って民族衣装を購入して、そこの模様から着物や帯をデザインをしてくれと言われて出掛けて行きました。  
45日かけて11カ国を回りましたが、当時民族衣装をきて日常作業をしていたが、段々変わってきた。   展覧会をするとお客さんが綺麗ねと言われてこの服は満足していると思っています。  
世界を全て日本語で通しています。 3つの言葉で歩けます。 ①笑顔(貴方の敵ではありません) ②おじぎ(ありがとう)  ③手を合わせる(お願い) これで世界中歩いてきました。

私のやり方は取材ノート(200冊ぐらいになる。)にスケッチをします。 そうするとまず子供達が集まってくる。  
やんちゃそうな男の子を書く、そうすると騒いで喜ぶ。 
そうするとその子の母親が敵ではなさそうだと寄ってくる。
ルーペをもって衣装を見せる。  
家に行く、写真を撮って、帰りに何かをあげる。(例えば魔法瓶とか)
アラビア半島とかアフリカでは着物を着ても知らない。(ヨーロッパは着物を着て歩くと 着物、着物と言ってくれる)  着物はわからなくてもアラビア半島とかアフリカでは綺麗とか尊敬をしてくれる。
どこの国でも伝統衣装は価値を認めるが、日常生活とはかけ離れていきつつある。

父の仕事の関係で6年間上海にいました。 上海から小学校の頃に苦労をしてリュックサック一つで帰ってくる。 貨車が襲撃されて一昼夜過ごしたこともあります。  母の里の大津に泊めてもらってその後京都に家を見つけました。  終戦で食べるものがないので母は家族を守ることで必死だった。 
母は着物と米を交換して食べさせてくれた。 
父は仕事の関係で残って残務整理をして1年半後に帰ってきました。

父は学ぶことを、母は生きる事を教えてくれた人だと思います。 父は国税局に入った。 
私は高校3年の時に美容師の免許をとる。  短大を卒業、当時は女性の働く場が無く、看護婦、電話交換 デパートの販売員ぐらいでした。 10社受けてようやくOLになる。
大阪の農機具メーカーに就職、技術部長の秘書をやりました。  
当時の一番新しいエンジンのキャラクターになって、稲穂をもってにっこり笑っている写真が今も残っています。 
お茶とお花、洋裁、英会話、英文タイプ、書道を習っていた。
そのお茶の先生が撮影所見学に行かなかと言って連れて行ってくれました、大映京都 撮影所でした。
2週間ぐらいしてからお茶の先生が「あんさん 女優でっせ」と言われた。 
実は面接だった。 父と母にそのことを説明したが、父は激怒していた。
運命が変わるかもしれないと思って女優になる。   6人入る(大映ニューフェイス(第十期生)   スターの座は約束されていない。
叱られているばっかりでどうしようと思った。  
いつかは誰かに認めてもらえるように頑張ろうと思った

若い頃は外人風の顔立ちだったので余り評価されなかった。映るからどけと言われ、辞める日も決めていましたが、吉村公三郎先生に「夜の河」で使ってもらって 、昭和33年に「手錠」でデビューする事になりました。 (時代劇から現代劇に移る、)  
当時は日本的な別嬪さんばっかりで個性的な顔立ちの人はいなかった。      
外人風の顔立ちだったので和製ソフィアローレンとか言われました。 悪役が多かった。     退廃的な演技が旨く出来なかった、演技力がなかった。 
行き詰って結婚する相手もうまくいかなかったし、京都に戻ってきて、母の美容室を継ぐ。 相手の人は良かったんですが、父親が京都財界でもポジションのある方で、女優やっている
女はあかんとか、髪結いの女はあかんとか言われて、彼は一緒になるとは言ったんですが、
結局当時は同棲とかなかったので、親の大反対で彼はアメリカに留学という事でご縁がなくなりました。 
美容室が忙しくて面白くなって頑張りました。  

或る時に呉服問屋の社長さんが着物教室を開かないかと声を掛けてくれました。
それから毎晩特訓で何とか一人で着物を着られるようになりました。  
デパートに「市田ひろみ着物教室」という看板が出てうれしかったです。
しかし着付けは出来るのだけれども理論が判らない。  
つづれ(綴れ)とは何ですかとか質問があり答えられない。 
(つづれ:破れをつぎ合わせた衣服。ぼろの着物。ぼろ。つづれごろも。)
(つづれ織り:横糸に数色の色糸を使い、模様部分だけをつづら折りのように織り進めて模様を表した織物。地組織の横糸も折り返されて織られるため、色の境目には縦方向にすきまができる。帯地・袋物・壁掛けなどに用いる。綴れ錦 (にしき) 。) 
私の様な体形の人は抱き幅はどのくらいにしたらいいかとの質問だった。  
「抱き幅」なんて聞いたことが無かった。  
困ってしまって「後三分(約1cm)ぐらい多くしてもいいんじゃないですか」と言った。 
「抱き幅」というのはおくび付け縫い代から脇縫いまでの幅で太っている人はちょっと多めにします。 

 これではいかんと思って和裁を習いに行った。  
20年後に私、あの場所にいたんです、と言われて吃驚いした。(「抱き幅」の質問時の教室) 
矢張り誰が見ているか判らないと思った。  着物を着る時には頭をアップにするのが常識だったが、髪の毛までお金がかかってしまう着物を苦痛から解放してあげないといけないと思って、バッサリ自分の髪を切りました。(平成元年)
着物は日本人の文化だと思います。   
昭和33年に女優をしてデビューしましたが、前年昭和32年の1年間は髪型、着物の着付け方の体験をして、どの程度が着やすいかを身を以て体験したので、その後の仕事に凄く役に立ちました。   苦しかったことも全て栄養だと思いますね