吉岡幸雄(染色師家)・日本の色を染める |
植物を求めて旅をする おもに使用するのが50種類 ミョウバンとか灰も使う 伝統的な仕事なのでなんか一つでも無くなると仕事ができなくなる |
継続して頂くので旅をする 染屋200年続いている 後継者がいなくなってきている |
初代 2代、は植物染料 3代目は化学染料が外国から入ってきて競って使ったので植物染料は 殆ど無くなってしまった(世界中の傾向だった) |
父も化学染料だったが、正倉院展とか日本の行事が国民の間に広まってきた 1000年以上前なのに美しい色が出ている |
その素材を考えるてみると植物染料だと もう一回考え直す必要があると父が考えた 父は大学の教師をしていましたので染料に対する研究に趣をおいて |
いましたので、化学染料とか植物染料とかに分け隔てなく考えていたのですけれども、 戻ってゆくのには植物染料の方が真っ当だろうと考えて戻りつつあった |
私が継いだ時には植物染料に決めていた 公害問題も当時は問題に成っていたし |
父と一緒に旅に行ったりしていた 今の人の創意、工夫などは1000年の歴史の上では知れている |
材料 紅花 乾燥した花で 100kgは使う 東大寺のお水取で60kg使う 小さな半紙一枚作るのに1kg必要 できるだけ国産でやりたいが20kg |
中国でレベルの高いものを使うと良い色がでるのでそれらも使っている 量としては紅花が一番おおい |
三重県 湿気のおおい 川霧がたつ処が良いと言われている 坂井いさお さん |
黄色はおうみの滋賀県伊吹山 かりあす(刈安)というすすきに似たもの (平安時代の書物にはかりあすは近江と丹後と書いてある) そこから取り寄せている |
刈安は1年草 乾燥したものを取り寄せる それを必要な時にぐずぐず煮て使用する その時にミョウバンとか椿の灰の助けが必要になるわけです |
椿の灰は紫を染める時に使う 椿の灰は染める時に色が綺麗になると昔の本に書かれている 葉っぱと枝と両方ですね |
沖縄に行くと福木という防風林として使用しているが之の木の皮を使用する(黄色) 花が綺麗な色だからとか草も緑がそのまま染まるかというとそうではない |
皮の外は黒っぽい色をしているが、削ってみると黄色い色をしている 煮出してみると色が出てくるとか |
「色紀行」 沖縄では黄色が非常に尊い色と言われている 本土の方は紫であるが 想像も入っているが 中国の明の影響が入っていて 明の時代は古代中国に |
戻ろうと言う発想ですから 黄帝(皇帝)と黄色が高貴な色に成っている 黄色が高貴な色に決められていた 黄色は一般の人には着てはいけない色に成っていた |
日本では紫は高貴な色であり高価な色である 紫草は「伊勢物語」「源氏物語」等に書いてあって 武蔵野の紫草と言って 今の吉祥寺、三鷹あたりで |
沢山とれたと書いてある 九州からも沢山とれた その時代には でもそんなに沢山とれたものではなくて 高貴な色と言うのは 材料が貴重でもあるわけです |
今も大分県豊後竹田市と言うところがあって紫草を復活させて栽培してもらっているのですが 栽培が気難しい 栽培に苦労してもらっている |
古い文献を見ると豊後、薩摩、富士山の東側が良いと書いてある 火山灰地がどうも良いようだ 東京も紫草の校章に成っているところもある |
紫は妖艶な色 光によって微妙に色が変わる それが紫の特徴だと思っている |
ふくさは紫が多い 源氏物語は紫の物語ですね 藤原氏にも通じますしね |
「紫」という映画を作ろうとしている |
藍 はいろんな国で作っている インディゴブルーとか 徳島の藍が有名 藍は1年草 4月に種をまいて8月頃に収穫する |
すくも 藍の葉っぱを刈った後にそれに水を掛けて腐らして腐葉土の様にされる それを我々のところに送っていただいて 木の灰で溶かしてそこに小麦粉のでんぷん分とか |
お酒などを入れてやって おもりをするわけですね 1週間ぐらいたつと気温が上がってくると 発酵して還元して酸欠状態になって液がドローっとして来る |
表面に油が浮いた様な状況になって 藍の花が 淡い泡がぷくっと下から出てくるんですね そうすると染めてよろしいと言う事になります |
世界中 同じやり方ですね (植物の違いはちょっとずつ違うが、やりかたは同じですね) |
中世の終わりごろには綿が日本には入ってきて温かい西日本で栽培することを促進した 木綿が普及する 綿は染まりにくい材料だけれども藍とは相性が良い |
江戸時代の庶民は藍染めの木綿を着ていた 藍は一番沢山作る 空の色、海の色 人間の色に馴染む |
茶色 タンニン酸 木の皮とか お茶を飲んでいるのもタンニン酸 渋 茶色は材料に苦労はしない 栗のいがとか 柿渋 どんぐり |
防腐剤になる タンニン酸は柿の実を守る |
染める技術は中国、朝鮮から入ってきた 飛鳥から天平にかけて日本のなかで凄く発達した |
当初保温すればいい機能だけだったが 絹が中国で発明されて 絹はタンパク質なので植物性染料 は非常に染着性がいい 絹に綺麗な色を染めて細やかな糸で錦を織るという |
ですからシルクロードと言う文明の交流が絹をきっかけに起こったと言う 中国に憧れる人は段々と広まって行った |
人間は自然とともに暮らしている 特に古代の人は自然に対する畏敬の念が非常に強かったと 思います 自然の美しさをそのまま映して自分の処の身近に置きたい |
これが染色とか絵画の発展のキーポイントだと思いますね 世界的に言うと4000年、5000年になると思いますね 日本ですと2500年ぐらいになるんじゃないですかね |
やっぱり絹の文化が来て進んで行ったと思いますね 麻とか藤ですと顔料を塗って行ったということはあると思いますね |
本格的な染色は中国におけるシルクロードの文化の交流が始まった2000年~2500年前だと思いますね |
卑弥呼の時代 纒向古墳(まきむく) の排水溝から紅花の花粉が大量に見つかっていますね 排水溝から出てきたという事は染屋があったか 口紅を作る化粧品屋があったか |
この二つが考えられますし 飛鳥の酒船石 藤の木古墳から紅花花粉がみつかっていますし、 これは明らかに紅花の赤を作るために 口紅と言い、染色と言い意識が |
多分に有ったと思いますね |
今までは日本では1500年前に紅花が渡来してたと言われていたんですが 1800年前には少なくとも 紅花の技術があったと 大まかに2000年前にはあったんじゃないんですかね |
ベンガラとか朱は顔料なので土とか石から採ったものですね 粒子ですから塗るという行為しかできませんね 染色は染めるという行為なので繊維のなかに浸透させるという行為ですね |
どちらが先かというと、朱とか丹が先ですね 先ず塗ると言う行為、次に繊維の中に染めると言う行為が出てくる |
ベンガラは岡山県の吹屋という処で非常に綺麗なベンガラができています 江戸時代は伝統的な技術を改良しようとする動きが出てきて 手順を解明しようとする ※「生成色(きなりいろ)」=無染色無漂白の布地の色を指す。 |
福岡県のミョウバンを改良するのに何人も非常に苦労したと言う話もあります どちらも生産はしていないのですが 我々の心を揺さぶるものがありますね |
皆さんに認識して頂きたいのは白の事ですね 白と言うのは染めないですね 処が植物には「生成色(きなりいろ)」と言うのがあってタンニンが有りますから |
繊維はそのまま織ったりすると少し薄い茶色と言うのか ベージュと言うか 生成色があるんですね 白は清浄とか 白を欲しがる |
エジプトの壁画を見ると判る様に皆白い布を纏って生活してますよね ああいう事は日本でも共通なんですね |
白は染色出来なかったので、さらすと言う事です さらすと言う事は日に干すと言う事です 河原とか雪のうえとか海とか紫外線の強い処で干しておくと |
布は自然と漂白されてゆく 東京都の多摩川 今はそんな面影はまったくないが 多摩川のさらしは有名だったんです |
ですからあの辺りは調布とか田園調布とか、布田 あれは布を調達して多摩川の川で洗って濡れた まま河原に干しておくと白くなってくる |
万葉集にもそういう歌がある 「多摩川のさらし さらさら・・・」 町名に残っている 麻布と言うところは麻を織ったところですね |
紫紅社 にて本を出版している 美術工芸 |
なんで植物染色にこだわっているかというと懐古趣味ではなく 染め上がった色が一番美しい そこが継続しなくてはいけないと言う役目ですね |
人間が作った人工的な色はなんか一見美しいように見えて、奥底が無い 植物染めの良いところは本当に奥底に色が有ると思います |
植物が枯渇してきますからこれを何とか これをもう一回農業というか そういう作物を作ることを 見直してもらいたい |
絹なんかも麻なんかも危機に瀕しているんですね そういうものを作っていただくと言う事が私だけの力だけじゃなくて沢山の方のご協力を得ませんと いけませんから |