アーサー・ビナード(詩人・絵本作家) 大好き日本 風景はいつも新世界
1967年ミシガン州の生まれ 大学で英米文学を研究しながらイタリア語、タミル語も学んで、日本語の多様性に好奇心を持ちます
22歳の時に来日して詩人となる 2001年に詩集「つりあげて」は中原中也賞を受賞 「日本絵本書」 山本健吉文学賞を受賞するなど様ざまな作品を表している
日本への関心はどのようにして? →詩が書きたくて新聞配達しながら書いていた
大学に入って英米文学を専攻して、イタリア語に興味を覚えてイタリアに渡った
卒業するのに単位を一生懸命かき集めた 先生からタミル語をやってみないかと言われた
アルファベットとは全然違う文字の面白さに目覚めて、
違う文字を使うと世界がもっと違って見えると言う事に気付いた
卒論を書こうとして 本を読みあさっていた時に日本の文字 中国の文字 漢字について
出合って タミル語も習って、思考回路も柔らかくなっていた状態だったので 漢字がピンときて 「これだ これをやんなきゃあと思って」
タミル語は200文字 漢字は無限の多様性があって しかも意味をはらんでいる文字が生き物のような存在だと思って、生きた詩が、生きた文学が作れたらなあと思って それで日本語か中国語を どっちにしようかと思って 卒論を書く合い間合い間に調べて、日本語の方が面白そうだと思った
日本語の授業に潜り込んで勉強した
日本文化とか余り考えずに日本語を勉強した
卒業の日には既に日本に来ていた (卒業証書は郵送してもらった)
文字の面白さは思ってた以上に豊かな世界が在って、いまも毎日驚くような素晴らしい言葉があって、いまも毎日覚えるんですよね
私が予想していなかった部分もあって 例えば擬音語 擬態語 の凄さ 音の表現の豊かさに吃驚した 雨の表現 ザーザー ドシャドシャ いくらでもある
めそめそ泣く さめざめと泣く げらげら笑う くすくす笑う
笑い方も一杯在って (英語もあるにはあるが日本語の方がその何倍もある)
日本語と毎日毎日楽しく、時には苦しく格闘している
池袋に住みついたが 日本語学校でも習ったが商店の店で沢山教えてもらった(買い物通して)
「柿」「牡蠣」 発音が難しい パーシモン カッキ(柿)はイタリアでは知っていた(渋柿を熟した柔らかいもの) 静岡の次郎柿 これも柿だと言われて吃驚した
イタリア語のカッキは日本語の「柿」が渡って行ったものだそうだ
猿蟹合戦 とかにも出てくる 掘り下げてゆくと色んな物に繋がっている
日本に来てイタリア語とのつながり、英語とのつながり 判らないことが結局面白い
少年時代は好奇心旺盛で 魚、昆虫 好きだった
昆虫少年が漢字に興味を持つと言う事はいま思えば 自然な流れだなあと思います
昆虫が好きな人は 一概には言えないかも知れないが、多様性が好きな 沢山バラエティーに富んだ どう頑張ってもは把握出来ないぐらいの多様性の有る世界、が好きな 圧倒されるバラエティー と圧倒される生命の多さに直面すると「うわー 面白い」と思って飛び込む人が昆虫少年に成るのかな
漢字もそうなんですよね 何千文字 何万文字とか とっても覚えきれない
私は漢字を全部知ってますと言う人は一人もいない
でもそれが面白くて 昆虫と触れ合って昆虫の世界を冒険することと、どっか繋がっている様な気がする
詩人になろうと思ったら観察が命なんですけれども、観察したうえでなにが作りだせるか
そういう時に私の場合は疑問符 なんだろう?という好奇心
疑問の様なものが原動力となって それを自分の好奇心に引っ張られて 引き込まれて 探ってゆく
観察して何かがみつかったら それが詩の出発点になるような
「まめ」 と言う詩 ジャックと豆の木を題材にしている 日本で知っている物語と英語の物語 イギリスの昔話 見事に訳した 「木」としたのが凄いと思った
日本のジャックと豆の木を聞いて新しい別の物語に感じた
子供の頃聞かされた物語とは違う風に感じた
大豆ではないかと思って 新しい作品になる
「ジャックが手に入れた魔法の豆は ジャックの庭に蒔かれてにょきにょき ぐんぐん 一晩で摩天楼より高く成ったそうな 高いところが得意じゃない
僕だけれど もし魔法の豆が手に入ったら 魔法の豆腐を作ってみたいと思う
きっと巨大な入道雲のような 世界中の人がほうばっても 食べきれないぐらいの、豆腐の一丁が出来上がるだろう
それとも納豆を作ってみようか 世界をねばねばねばっと 一回り 世界を繋ぐ素晴らしい糸をつくるだろう」
英訳するときに納豆が弱くなる(豆腐は米国でも認知 納豆は? 最後のところが弱くなってしまう 補うのが難しい 説明すると詩にならない ネットワーク(ナットウワーク)
詩とは?→生活と詩は結びついていて 生活そのものが詩になるかと言うと ある瞬間が詩になる 詩があるところで生活の本質を捉える
単純に生活が詩になるわけではないのですが、生活を抜きにした詩だと私の場合は読者に手渡す必要が無いのではないかと思う
生活の本質を発見する手段かもしれない
他の生き物と繋がっていると言う事を実感できるかどうか 大事だと思います
日本語の言葉のレンズの作用 団子虫 恰幅のいい虫 英語ではそういうイメージには成らない
「ばなな」 詩
「屋上でバナナを食べた 半分ずつ 遠い南国の事 搾取の事 農薬 死んでゆく愛の事 一つも考えないで かすんだ町 見下ろしながら バナナをほうばった」
一本のバナナの裏には遠い国の経済問題 労働問題 農業の問題 農薬の問題 いろいろな問題がある そういうことを考えると詩になってゆくか、論文になるかも知れない
或は行動に結びついて 農薬を使わないバナナはつくれないのか
一本のバナナから世界中の色んな分野が繋がって 人と人が実はそのバナナを 通して 或は私達が着ている洋服を通して 色んなつながりがあるのですが この詩をつくった時には具体的には核の問題 放射能の問題に触れてはいないのですが、それも全てに係わっているんですよね
いまの日本を考えるときに 太平洋がどういう影響を受けているか 日本里山 森の生き物はどうなっているのか
繋がっている命が生きていけるか これから書くものに全て影響してくると思います
文学者としてこれからの事を考えなければ文学は作れない 古くならないのが文学 自分が死んだ後にも読んで新たな発見があると言う風にしなければいけない
これから生まれてくる子供達の事を考えなければそれは文学じゃないと思う