2012年4月4日水曜日

森達也(映画監督)          ・ドキュメンタリストが捉えた震災被災者の悲しみ

森達也(映画監督)              ドキュメンタリストが捉えた震災被災者の悲しみ  
日本のドキュメンタリー映画監督、テレビ・ドキュメンタリー・ディレクター、ノンフィクション作家 東日本大震災発生から2週間後の様子を撮影した映画「3・11」が公開される  
従来には無い記録映画として話題を呼んでいます  
最近タイで上映された タイも去年水害がある 犠牲者には違いがある  
インターネットでは映像を見ているんではあるが映画として作品を見て言葉を失う状況だった
ラストシーン 遺体を撮るかどうかでエピソードがある   
映画のテーマに繋がっている がタイの人には理解できなかった 
タイでは遺体はタブーではない  遺体だけの写真集すらある  文化の違いを感じた

「映画の概要 4人のドキュメンタリーを撮っている人達がビデオを回しながら被災地に行った 
3/26に一台の車で向かう 福島県みはる、浪江、大熊町等8kmの地点まで入った
景色は変わらないが線量計がどんどんあがる様子、津波被害の大きかった陸前高田 大船渡を撮影 宮城県の東松島、石巻の避難所 沢山の犠牲者をだした大川小学校
行方不明の子供達を探している親たちへのインタビュー 最後に遺体を搬送するシーン 
その関係者から角材を投げつけられるシーン  口論になるシーン」
山形県の国際映画祭 釜山での映画祭 賛否両論があった  
上映はするかどうかは決まっていなくて 皆の反応を聞きながら決めようかとしたのですが
ここでも両極論になってしまって、決めれない  
安岡がこれだけ極論が有ると言う事は作品が自立していると言う事なんだから上映しようと言う事になる

渋谷映画館で上映 ツイッターでも賛否両論   
映画を作ろうとした動機は→11日打ち合わせで六本木にいて地震に有って中止になって  電車も止まっていて家に帰れず居酒屋で飲んで騒いでいた
中華料理屋でまた飲んで泥酔状態   
五反田の友人の家に言ってTVを見て地震、津波の映像を見て愕然とする 虚脱状態だった  自分達がビール飲んだり大騒ぎしていた時に高々100~200kmしか離れていないところで津波の惨状に多くの人々が遭っていることに対して 茫然として ショックで、仕事をしている時期ではなかったので2週間 朝から夜までTVを見続けていました
   
精神的にちょっとおかしくなってきてしまった(鬱状態) 綿井 健陽さんから電話があった  
彼は戦場 イラク、アフガンと言ったところでビデオカメラを回してきたジャーナリスト  
現場に行きませんかと電話がかかってきた
一旦断る  自分が疑似的被害者 ちゃんと現地に行って状況を自分の目で見て、音を聞いて その時に自分がどう思うか と言う気持ちが湧いてきて、結果4人のドキュメンタリストが車に乗って行くことになった(26日) (松林要樹  安岡卓治  綿井 健陽と私)  
この時には映画を作ろうとは思っていなかった   とりあえずは撮ってみようと思っていただけ  放射能に対する知識が無かったのでなぜかそう状態になっていた
(恐怖心から  戦争時と同じかと思う)  
NGとOKがひっくり返っている映画  画面で文字で自己批判をする 
曖昧な取材姿勢 不十分な装備 福島の取材を断念  津波の被災地に向かう
陸前高田、    時々自分達の取材の様子を撮る 状況に反応する姿を撮る  
いつも一番前で撮っていたので自然発生的に私が一番映る様になった

私には余り危機意識が無いので一番先に進む場合が多かった 
大川小学校で子供を探すお母さんに「見つかった方が良いんですかね 見つからない方がいいんですかね」と問いかける
「覚悟しています 本当は見つかって欲しい 一刻も早くこの様な状況から子供達を助け出したいんです」と言う話をする
怒りをぶつける処が無い 「じゃあ僕にぶつけてください」という カットを要求するがこれは大事なせりふだからとカットしてくれなかった  
自分達のだらしなさ  浅はかさを示すうえで大事な 台詞であると    ぼくもそう思います  思わず言ってしまったが (姑息でもある メディアの加害性、偽善性、後ろめたさがテーマですから)自分達メディアのだらしなさ 厚かましさ 汚さ 全て出そうと  NGとOKが転換すると言う事はそういうことなんですけれども残すべきだと言う事で残すことになった
  
自分としては複雑な気持ちですけれども、私達は傍観者であるのみ 不幸を探してうろつきまわっている  
後ろめたい気持ちはメディアをやる上で大事だとおもうんです  
この作品でテーマにしようと思うようになった 
遺体をブルーシートで運んでいる時に角材を投げ込んできたシーンがある  
遺族としては撮らないで欲しいとの思い 謝りながら撮っている(意味不明 矛盾したこと)
メディアに対してのメッセージでもある  
自分達メディアは こんなに図々しくて、厚かましくて お粗末なんです と自己批判を含めて批判しようとそういった思いがありました
「後ろめたさ」「他人の不幸を取材するドキュメンタリー」    
暴力 加害性 そういう仕事をやっているんだ というのを見る事で見る側がどう考えてくれるか
自己投射するかも知れないし、日本全体にメディアだけじゃなくて と言う風に思ってくれた人がいたらもっと嬉しい

加害性はある マスメディアの人が覚悟すべきは人を傷つけない配慮ではなくて もしかしたら人を傷つけてしまうかもしれない事を覚悟すべきだと思っています
日本人の多くの人は後ろめたさを感じた
(自分の身には何にも起きなくて 一方で多くの人々が亡くなり、被災して苦しんでいる)
「絆」という言葉だけに逃げるんではなくて、もっとネガティブなものにも見つめなくてはいけない  生き残ったゆえの罪責感
事件とか事故を報道しますが、一面的でしかない 実際 それは多面的で、多層的であり、重層的であり つまりどこから見るかで全然違った面が表れてくる
例えば人間もそうですよね Aさんと言う人がいて、Bさんから見るとこういう人で、Cさんから見るとこういう人と見る人によって全然違うわけです

処がマスメディアは均質化しちゃうんです 視聴者、読者が一番喜ぶ、なおかつ判りやすい部分だけを出しちゃうんですね  どんどん現象が矮小化されてしまう
メディアが発達すれば発達するほど世界が単純化してしまう   
今回はマスメディアによる単純化 矮小化に対する「あがらい」 世界の多重化、多層化を示すことだと思っている
後ろめたさと言うような感覚は非常に大事だと思っている  
先ずは自分が知りたい   
「3・11」は色んな見方があるとおもう それでいいと思っている